【「帝国の慰安婦」書評】感情の混乱と錯綜:「慰安婦」に対する誤ったふるい分け

 (建国大学校 法学専門大学院 イ・ジェスン教授による「帝国の慰安婦」書評) 

朴裕河教授が慰安婦問題に関し、韓国社会の常識となった見方を克服するために、慰安婦のもう一つの真実を暴露したいと論争の火ぶたを切った。

朴教授の言葉のように、ある問題をめぐり双方が何十年も対峙している場合は、一度問題提起の方法を点検してみることも必要だ。
このような方法の転換を通して適切な解決策を提供できるなら、旧態依然の態度をとってきた方が間違っているといえる。
朴教授は、このような見地から、慰安婦問題をめぐって主に韓国側の立場を批判し、再構成を試みた。
筆者は、問題を適切に提起しているにもかかわらず、末永く問題を解決できない状況が世の中に多々ある事を知っている。
特に正義と責任が問題となる法的、倫理的な問題から、こういったデッドロック状態は頻繁に発生する。
その理由も、主に事態に対する誤解ではなく、原則的な態度と関係している。
筆者は慰安婦問題は、まさにこの種の問題ではないかと思う。

 

朴教授は「帝国の慰安婦」で国家主義、帝国主義、民族主義、階級構造、家父長制、植民地主義の活用可能な手段を総動員して波状的な攻勢を浴びせる。
しかしその多彩な批判を通じて、慰安婦問題に対して適切な総合判断をしたかが重要だ。
朴教授の提案は、複雑で微妙で危険だ。
筆者は、責任というのは、あるかないか、はっきりしたものだと思う。
朴教授の思考実験がコペルニクス的横断と評価できるのか、さらに検討が必要だ。
「帝国の慰安婦」は、新聞やインターネットのブログ書評欄で十分に紹介された。
先日プレシアンでイ·サンヨプは、朴教授の文が議論を誘発させないか、慎重に予想した。
朴教授の著作から滝のような感性的洞察には賞賛を送るが、その洞察を適切にふるいにかけたのかは疑問だ。
感情の混乱と錯綜が、この本にはあまりにも深く滲んでいると思う。
筆者は、朴教授の結論の前提である「日本政府は慰安婦問題について、法的責任がない」という主張に反論してみよう。
もし朴教授の結論の前提が正しいとすれば、慰安婦問題を解決する必要性が消滅されますので、慰安婦問題をめぐり朴教授が和解のためにさらに努力をする必要もないでしょう。
同時に、日本の法的責任が存在すると判断するのであれば、中途半端な平和基金を拒否することが合理的な判断になると筆者は考えます。

 

1.業者の再発見

 

朴教授は、慰安婦動員が日本や日本軍の「国家犯罪」でなく、たとえ犯罪だとしても、それは主に「業者の犯罪」だとする。
同時に、朴教授は、業者の責任も大きいが、日本政府の責任にも言及する。
しかし、天皇や日本政府が性奴隷制に対して法的責任を負うものではなく、植民地支配と関連して象徴的で構造的なレベルの責任を負うと述べる(191頁)。
責任に関するこのような式の腹話術は、責任を回避するための装置に過ぎない。

 

朴教授は、慰安婦制度は売春であり、朝鮮人慰安婦は「帝国の慰安婦」であり、日本の軍人と朝鮮人慰安婦の間に「同志の関係」があり、慰安婦は戦争の「協力者」でもあると主張した。
朴教授は、いくつかの慰安婦被害者たちの証言から、日本の兵士と慰安婦の切ない愛や美しい日々を特に強調する。
そして悪魔的な日本軍の印象は間違っていると強調する。
それとともに、韓国人の常識的な記憶に宣戦布告する。
「慰安婦たちの純粋な喜びの記憶を外部者が消去する権利はない」と、朴教授は、この美しい裏面を必ず知っておくべきだと繰り返す。
そして、社会と挺身隊対策協が作った「闘士的な」慰安婦像(鍾路の少女像)が普通の慰安婦たちにとって、美しいひとときを話したり記憶する事を抑圧していると主張する。
まるで、挺対協が広めた慰安婦の話を超えて、深い真理を発見したように話す。

 

慰安婦制度が軍人の性的欲求を解消するために日本帝国が企画し、一連の行政的・立法的な措置を体系的に配置して朝鮮人女性を強制的に動員した国家犯罪とする構造的視覚を拒否する場合、慰安婦制度はどう理解するべきだろうか?

まず慰安婦に関する主要な事実はバラバラに個別化する。

その場合、いわゆる人道に反する犯罪としての性奴隷という観念は成り立たない。
いうなれば、日本軍司令部の慰安婦募集の指示は単なる依頼であり、業者の詐欺的な募集は禁じられていない行為であり、慰安婦を国外に移送した軍人は交通便を提供した親切な人であり、慰安所を設置した部隊長は様々な便宜を図ってくれた後見人であり、慰安所を利用した軍人は軍隊に連れてこられた可哀想な人に過ぎなくなる。
では誰の何を処罰できるだろうか?国家犯罪を否認する側は常に、このように官僚的かつ組織的な犯罪に対して個別化戦略を推し進め、事態の縮小と歪曲を図る。
ユダヤ人虐殺に関わったドイツ人の行いすらも、徹底して個別化して論じたなら、一人も処罰できなかったはずだ。

 

朴教授も構造的責任を語っている。
しかし法的責任を強化または補強するために構造的責任の概念を用いるのではなく、法的責任を構造的に無力化させ、全体的に責任を曖昧にするための装置として構造的責任の概念を用いていることに問題がある。
朴教授は総体的に責任を規定すべきときは事態を個別化させ責任を薄め、厳しく責任を追及すべきときには加害者を被害者化し、朝鮮人軍人、善良な日本軍人を連続して登場させて、加害者と被害者の構図に揺さぶりをかける。
その際、慰安婦は20万という俗説を流布し、慰安婦が少女だけだったかのように少女像を建てた挺対協を批判の的にする。
既婚者が慰安婦に行ったり、慰安婦が3万名程度だったとして、性奴隷制に対する日本の法的責任が変わるかは疑問だ。
全体的な視覚から慰安婦問題を検証するべきだ。

 

慰安婦制度は、国家としての日本が、ファシズム的な動員体制により婦女子を慰安所に誘引し、日本軍人に性的サービスを提供するように強いた性奴隷制(sexual slavery)だと筆者は理解している。
日本の軍慰安婦制度は人道に反する犯罪(crime against humanity)に該当する。
性奴隷制度を設計し、動員を指示した国家権力の核心部、たとえば、天皇と内閣、軍司令部の主要人物が人道に反する犯罪の主犯であり、慰安婦を募集、輸送、監禁、管理して利用した者たちはその下級の犯罪者たちだ。
一方、朴教授は慰安婦の真実を売春のイメージの中で解体することで、これを世の中の古い慣習程度に扱っているようだ。
特に、かつて発展した日本の海外移送売春女性に関する話である「からゆきさん」を詳細に論じている。
日本がそのような伝統を持っていたとしても、日本軍が朝鮮人女性に野蛮を強いる権利は発生しない。
慰安婦が単なる売春女性だとすれば、戦争犯罪や人道に反する犯罪と規定することは難しいだろう。
おそらく朴教授が基準にする良識的な日本人たちは、このようなレトリックを駆使しているようだ。
慰安婦を売春と規定することで慰安婦制度の不法的な要素を消していけば、慰安婦問題は自然と解消できるからだ。
朝鮮人業者だけの犯罪だと結論づけることができれば尚更良い。

 

2. 朴教授の構造的責任論

 

朴教授は慰安婦を日本軍が強制的に連れて行ったという証拠がまだ発見されていないため、慰安婦動員と関連して、日本軍に法的責任が存在しないと主張する。
日本軍が朝鮮人女性を強制的に連行し、集団的に暴力を行使して強姦したとは考えない。
植民地の動員体制を通じて、朝鮮人女性の性を容易に搾取することができるが、日本軍があえて朝鮮人女性に物理的に直接暴力を行使する理由がない。
構造的に整備されたシステムを使って無理なく性的需要を満たすことができるのに、日本当局がなぜ暴力を行使するのか。
朝鮮が植民地になったという事実は、日本当局の自然の暴力から構造的暴力に重心が移動したことを意味する。
戦争中に東南アジアの女性には、自然の暴力を不法に行使するしかなかったが、朝鮮人女性には制度的暴力が「合法的に」行事できたのだ。
朴教授が、東南アジアの女性への日本軍の戦時強姦と、朝鮮人女性に対する暴力のないセックスを熱心に区別しているが、それは有効だとは思えない。
良識ある日本人の心を慰めるには効果があるかもしれない。

 

研究者らによると、朝鮮人「慰安婦」連行で一般的に警察、行政職員、業者など3者が組を成していたとされる。
慰安婦被害者たちを連行した主体については、軍人、警察、公務員、業者など多様に述べている。
そのうちの半数以上が業者(人材斡旋業者)と証言した。
朴教授は、現実的な強制力を行使した者が業者なので、慰安婦動員は、業者の犯罪と規定する。
しかし、業者が現実的な強制力を行使したと言うよりは連行の直接の発行者が業者と言うのが正確だと思う。
ところが、朴教授は「現実的な強制力」と「構造的な強制力」という用語を採用した。
よく見ると、現実的な強制力の概念は、慰安婦の動員の暴力的なイメージを業者に転嫁する手段として機能する。
業者(事業主)の暴力性を強調すると、業者と天皇との間に密接に存在する主要な責任主体が消去され、「せいぜい」構造的な強制力の論理的帰結点で、日本政府や天皇が登場する。
構造的な強制力に立脚した構造的責任論は、法的責任を認めるための論理ではなく、法的責任を否定するための手段であるという点に注目しなければならない。
朴教授は、日本の責任要素として挙げたものが一様に慰安婦動員に直結していない事情だからだ。
例えば、日本が戦争を起こしたこと、性的サービスを大規模に必要とする軍隊を維持した点、朝鮮を植民地にしたこと、業者の慰安婦連行を黙認(?)という点で、日本の責任を取り上げる。
筆者の考えは単純だ。
法的責任の要素がなければ、責任をこれ以上論じてるのをやめようということだ。
朴教授が日本の直接の責任の要素を否定し、代わりに遠回しな方法で日本の責任を取り上げている行動は、重大な人権侵害行為に対する否認行為ともすることができる。
 
朴教授の構造的責任論は、責任を強化し、責任を明確に帰属させるための装置として使用されるものではなく、末端に責任を転嫁して重要な戦争指揮部の責任を免除する。
そのルーズな構造の象徴的な責任のみが日本に存在する場合、慰安婦問題を韓日間の懸案から除外すべきが正しい。
そうだとすると、アジア平和基金も不要で過分なものだ。
日本政府に、植民地支配の責任者として、慰安婦動員の「懸案」を追加してもならない。

 

3. 日本の直接の責任

 

日本政府と日本軍指揮部は行為者として直接的な法的責任を負うべきだ。
慰安婦制度は統治の欠陥(不作為)でなく統治の犯罪だった。
直接的な法的責任の存在を無視して象徴的かつ構造的な責任だとすることは欺瞞だ。
当時の刑法は海外移送を目的に人を強制的に連行(略取)したり、騙して連行(誘拐)したり金銭を代価に人を売買する行為を犯罪と規定していた(刑法第226条)。
刑法規定は略取であれ誘拐であれ、同一の犯罪として処罰するということに注目すべきだ。
日本の右派は強制連行(略取行為)がなかったなら日本の責任はないという論理を構築してきた。
彼らは強制性に関する誤った印象を広め、日本の責任を希釈させようとする。
「強制性の消費者」として日本の右派は大衆心理戦を繰り広げてきた。
彼らの論理に従えば、北朝鮮の当局者が強制力を行使して日本人を北朝鮮に連れていっていないので日本人拉致問題は存在しないことになる。
とにかく刑法は略取、誘拐、人身売買を同一の犯罪と規定しているため、そのような区別は法的に重要ではない。

 

朴教授は日本軍が慰安婦の拉致や誘拐を指示した証拠がないために、違法的な動員の責任は慰安婦を直接募集した業者たちにあると主張した。
しかし朴教授の主張は不当だ。
朴教授の仮定のように日本軍部が違法的な動員を指示していなかったとしても、日本軍が刑法第227条の犯罪者であることに変わりはない。
刑法は、第226条の犯罪による被害者たちを引き受ける者も、略取誘拐の幇助犯として処罰する(刑法第227条)。
かくして、業者の責任を強調することにより日本軍の責任を希釈させようとする試みは水泡に帰す。
慰安所を設置運営して慰安婦を授受した部隊の指揮官はこのような犯罪の主体となるからだ。
これを、「法律上、当時は罪が成立しないにも関わらず、仕方なく日本政府が構造的責任を負わされた」というふうに話すのは詭弁だ。

 

では、日本軍部が慰安婦動員を指示したならどうだろう?
日本軍の指揮部は刑法第226条の共同正犯または教唆犯に該当する。
朴教授は違法的な慰安婦募集を指示した証拠はまだ発見されていないと主張する。
さらに1938年慰安婦募集に関する軍隊内の最後通牒である『軍慰安所従業婦等募集に関する件』を提示し、これを違法的な慰安婦募集を禁じた軍隊の措置として把握している。
朴教授は小林よしのりのスタンスに倣っている。
しかし慰安婦連行が軍の名誉を失墜させないために巧妙かつ慎重な方法を活用せよとの趣旨として解釈する吉見義明と永井和の立場が状況として正しい。
実際にこのような通牒が下される前、日本では軍慰安婦の拉致事件に関する裁判が1件あった。
満州事変直後の1932年春、長崎の女性15名が上海海軍指定慰安所へ誘拐され2年間、性奴隷の生活を強いられた。
1937年、大審院は慰安所経営者と仲介人を刑法第226条に基づき処罰している。
まだ軍国主義の波が日本全域を覆う前の司法組織が人権保護の機能を遂行した事例だ。
しかしこの事件で法院は、婦女子拉致を指示・依頼した軍隊とその指揮者の責任は不問に処した。
とにかくこの事件を背景にして前述の最後通牒が発布されたという点に注目すべきだ。
同時に1937年中日戦争直後に性的サービスに対する日本軍隊のすさまじい需要を考慮すれば、大規模の慰安婦を合法的に調達することが不可能な時点で、急に人権を強化する禁止規定を下すことは考え難い。
したがって物議をかもすなという指示は、違法的な慰安婦動員を禁じたものと解釈できない。
そして軍慰安婦の募集が裁判に回付された事例が1件だけという点から見て、軍慰安婦の連行は刑法的に犯罪だが処罰していなかったことを確認できる。

 

朴教授は、当時は違法的募集を禁じたものの、実際に取り締まらなかったという点において日本政府の責任があるとした。
しかし日本政府、日本軍司令部、朝鮮総督府、朝鮮軍司令部はただの見物人ではなかった。
ただ黙認したために慰安婦動員に責任を負うべきだとすれば、私たちは日本政府に対してあまりにも高い水準の政治的責任を追及していることになる。
朝鮮総督府は朝鮮の婦女子、未成年者を軍慰安婦にするために刑法上の略取誘拐罪を有名無実にする職業紹介法制を導入し、実際に軍慰安婦の動員を合法化した。
すでに朝鮮では軍慰安婦募集に関して司法当局が介入したり統制することができないように法制度を構築したのだ。
植民地における法統治の二元性または二重性が如実に現れる事例だ。
民間業者を統制する紹介営業取締規則は、日本では詐欺的募集を禁止する方向に働いたが、朝鮮ではその紹介営業取締規則の法令を粗略に規定し、便法的な方法を使用できるように形作られた。
刑法で慰安婦の略取誘拐を犯罪と規定しておきながら、紹介営業取締規則では紹介業者の便法的行為を許容したわけだ。
日本は朝鮮植民地において、以後、総動員体制の朝鮮職業紹介令(1940)の中で民間業者に対する許可と統制規則を定めることで、朝鮮総督府をはじめとする「官」が介入した慰安婦動員の法体制を完全に整えていた。
したがって慰安婦は業者たちの拉致と人身売買だけでなされたことではない。
挙国的に1~4次「慰安団」を組織的に募集できたことも、このような国家的動員体制のためだった。
ハン・ヒェインは最近の論文でこの点を詳細に論証している。
植民支配体制は立法と司法の側面から朝鮮人婦女子を軍慰安婦として動員できるように完璧にサポートした。
不法的かつ差別的な二元的法構造の中で、朝鮮人女性は組織的な国家犯罪の犠牲となっている。
慣行上、人身売買を取り締まらなかったことは非難されるべきだが、法としては禁止したために日本政府は基本的な義務を履行したとする朴教授の評価は事実に即していない。
また、日本と朝鮮は同一の条件下にあったが飢えや非情な父親や男性兄弟により朝鮮人女性が慰安婦動員の犠牲になったという朴教授の主張も的を射ていない。
朝鮮人慰安婦は、朝鮮と日本の差別的動員法制の餌食だったということに注目すべきだ。

 

一方、朴教授は慰安婦問題について主要な責任は日本にあると主張しながら、責任の根拠は、性的サービスに対する巨大な需要を持つ軍隊を維持することから探す。
しかし、このように責任論を戯画させることができるかどうかは疑問だ。
責任の中核を非常に周辺的な状況に押し出し、周辺的な背景を持ちだして、日本軍「慰安婦」問題を議論してはならない。
朴教授は、軍当局の慰安婦募集指示の形法的意味を全く議論しない。
指示した証拠はない式の主張に没頭する。
同時に、軍の指示があったという事実を認める部分もある。
それでは一体指示とは何と理解しているか疑問だ。
慰安婦募集の指示を、不動産屋に良い物件を少し調べてくれとの依頼と同列視はできない。
朴教授は続けて「朝鮮人」業者の利潤追求を非難し、業者が強制連行の主犯に仕立て上げる事に心血を注いだ。
実際、<帝国の慰安婦>の基本的な考え方は、朝鮮人業者の再発見だ。
それにすべての責任問題の形勢を切り替えることができると考えているからだ。
日本に過去の歴史の責任を追及するには、韓国が先に朝鮮人業者を処罰すべきという式だ。
しかし、朴教授は「日帝強占下の反民族行為真相究明に関する特別法」が「日本軍を慰安する目的で、主導的に婦女子を強制動員した行為(第2条12号)」を国権を売った売国行為と同様に、反民族行為と規定された事実を把握しているか疑問だ。
親日真相究明委員会が一部の朝鮮人慰安所業者を親日派と規定したという事実を強調せざるをえない。

 

朝鮮人業者が実行者としての役割を負ったとしても、主導権を業者が持つわけではない。
最近、アン・ビョンジク教授は、軍慰安所の管理人を務めた人物が書いた日記を翻訳している。
彼はこの本の解題で付録として追加した連合軍捕虜訊問調書と調査報告書を分析しながら、「慰安所業者たちが営業のために慰安婦たちを連れて日本軍部隊を追い掛けたのではなく、日本軍部隊が下部組織として編成した慰安所と慰安婦たちを戦線へ連れていった」と結論づけた。
日本軍司令部の指示が軍国主義国家においてどういう意味を持つかについて、朴教授は思考を放棄しているようだ。
指示がどういう命令系統を通じて現場で貫徹されたかを留意する必要がある。
司令部の指示は単なる紹介依頼とは異なる。
慰安所の設置は軍隊の徹底した計画と指示によるものだった。
慰安所が大規模に設置されはじめた日中戦争の過程で、華中では1938年6月に北支那方面軍参謀長の指示により、華南では1938年11月第21軍司令部の指示により慰安所が設置されはじめた。
朴教授のように運営主体として民間業者の慰安所を強調するとしても、それすらも軍隊の徹底した管理統制下にあったという事実に変わりはない。
慰安婦問題の主犯は業者ではなく日本軍部だった。

 

日本軍の慰安婦連行は人身売買禁止協約に包括的に違反している。
婦女子を醜業に利用するため拉致または誘引、売買、輸送する行為は、それ自体が国際法において違法だった。
慰安婦募集は日本が加入した「白人奴隷売買の鎮圧のための国際協定(1904)」と「白人奴隷売買の鎮圧のための国際協約(1910)」が禁じる人身売買に違反する。
(「白人」とは協定成立過程の沿革的背景を説明している。
婦女人身売買撤廃運動は人身売買される白人婦女を救出する運動から始まったが、この協定は白人女性だけを保護するためのものではない)もちろん、日本は重要な1910年の協定を植民地で適用することを留保したため、朝鮮でなされた慰安婦の人身売買や動員は協約の適用を受けないと話している。
しかしここでも二重的で差別的な法体制に注目すれば、帝国の市民としての協力者だとする朴教授の見方はきわめて不当だ。
朝鮮人は社会的に差別されたのではなく法的に差別されたのであり、二元化方式により植民地人は性奴隷制の餌食となったのだ。
しかしチョ・シヒョンの指摘のように、朝鮮人慰安婦が日本国籍の船舶により中国や南洋群島に輸送されたため、その状況はこの協定の適用を避けられないはずだ。

 

4. 慰安所 - 遊郭か強姦キャンプか

 

慰安所の形態は多様だ。
軍直営の慰安所、業者の慰安所、混合慰安所がある。
いずれの場合にも慰安所は軍の管理監督下に置かれていた。
朴教授は、一日数十人を相手にこき使われて、暴力に苦しめられて捨てられる慰安婦を取り上げるが、慰安婦の他の側面を非常に強調している。
慰安所で必ず強圧的なセックスがあったのではなく、文字通り対話し、慰労を受けることも少なくなかったし、慰安婦と日本の軍人たちのロマンスも、彼らの間の結婚もあったという点を指摘する。
被害者である慰安婦には肯定的で、明るい側面も存在するという点を強調している。
<帝国の慰安婦>は、慰安婦の証言集から都合よく集めたようにみえる。
しかし、これらのロマンチックな場面に注目することが、果たして全体の責任議論に合理的な分配方式だろうか?人間は、地獄のような場所であっても夢を見なければ生きていけない存在だ。
しかし、被害者をさらに犠牲者化するなとの主張に同調しても、被害者と加害者の構図を倒そうとするまでに至っては、朴教授の提案は非常に危ういものだ。

朴教授は性奴隷という規定が慰安婦の女性の主体性を過度に奪い、最終的にそれらを侮辱する言葉になると懸念している。
慰安婦の人権のために性奴隷という言葉を慎まなければならないということだ。
しかし、朴教授の道徳的懸念が性奴隷という表現が意味する日本の負担を希薄させる煙幕のように感じられる。
朴教授の言葉通り、今慰安婦は売春婦だとか、日本の軍人と同士的関係だったと言うことは、慰安婦の人権と名誉に役立つかも、やはり疑問が持ち上がるからだ。
ここまで達すると、果たして誰が慰安婦生活の中であった美しい一時を覚えていると言う慰安婦の権利を抑圧するのか?鍾路に堪えているジャンヌ·ダルクのような慰安婦少女像か、それとも慰安婦を売春婦との仕打ちを行う者か?

 

朴教授は慰安所で強圧的なセックスもあったことを認めつつ、慰安所での性的関係のすべてが強姦ではないと主張しようとしているようだ。
そのような性的サービスの前後において暴力が行使されなかったことも指摘する。
彼女らは市内に外出することができ、軍人たちと一緒に写真を撮れたことを強調する。
しかし朝鮮の婦女子を中国や南陽群島に移送させておいて、そこで外出を許容したからと彼女らを自由な存在といえるだろうか?慰安婦にはセックスを拒否する権利がなく、慰安所から離れる権利もなかった。
彼女らは全体的に自由のない状態に置かれていた。
脱出の意志をなくした慰安婦女性に暴力を行使して性欲を満たそうとする軍人はなかなかいなかっただろう。
慰安所という巨大な暴力の構造の中に慰安婦がいたことに注目すべきであり、性を搾取する空間において日本軍人の暴力性の有無は肝ではない。
朴教授が慰安所の風景を人間の共感が流れる場所として説明したところで、慰安所で慰安婦たちは抗えない状態に置かれていたため、そのような状態にいる女性を姦淫する者は準強姦罪(日本刑法 第178条)に該当する。
朴教授は慰安所で日本軍将校に会い、愛され、彼の助けで慰安所から解放されたシン・ギョンランお婆さんの事例を強調するが、決して平均的な事例ではない。
(この引用資料も挺対協が編集しているため、挺対協が美しい記憶を抑圧したという主張は額面通りに受け入れがたい)むしろ、日本軍将校が保証した証明書を所持していなければ帰国(脱出)は不可能だったという点を証明する事例として解釈される。

 

朴教授が慰安所で日本軍の将校に会って愛を受けて、彼の助けを借りて、慰安所から解放されたシン・ギョンラン氏の事例を強調したが、決して平均的な事例ではない。
むしろ日本軍将校が保証した証明書を所持していなかったなら帰国(脱出)が不可能だったことを証明する事例として解釈しなければならない。
朴教授は、東南アジアの現地の人が朝鮮人慰安婦を日本の軍人と同じように敵として理解し、日本の軍人と朝鮮人慰安婦は帝国の市民として、「同志関係」だと結論づけた。
このような同志の関係であったので、戦争が終わった後も、朝鮮人慰安婦が日本軍の負傷者を看護したと主張している。
選択の余地がない女性が諦めて順応する状況を帝国の慰安婦として、同志として、協力者にしようというのは信じられないほどの文学的想像力だ。
また、慰安所に行った日本軍人も戦争に追い込まれた被害者と規定した部分は、朴教授の責任の理論の深刻な混乱状態を示している。
朴教授の責任論は、ほとんど宗教的な水準に近接している。
そしてまた、慰安所に向かった兵士の中に朝鮮人もいると強調している。
しかし、このような意図的な混乱を通して慰安婦が日本軍の性奴隷だったという評価を変更したり、緩和させることができるか疑問だ。

 

慰安所は日本帝国の緻密な国家犯罪だった。
いわゆる慰安婦は日本帝国の慰安婦ではなく、日本帝国の性奴隷だ。
日本軍の計画と指示により募集され、慰安所に移送された後、慰安所で性の提供を強制され、慰安所を離れる権利も剥奪された。
慰安婦たちに自由はなかったため、慰安所は強姦の場であり性奴隷制度だ。
この点はすでに2000年の日本軍性奴隷戦犯女性国際法廷において結論付けられたことでもある。
1926年奴隷禁止協約の当事者である日本は、慰安婦制度を運営したことにより奴隷禁止協約も違反している。
朴教授は東南アジアの女性やオランダの女性を相手に日本軍が戦時下において強姦をし、慰安所に連れていった事例と朝鮮人慰安所を区別するために苦心するが、それは法的に重要な事項ではない。
法的に重要ではない事項を繰り返し区別し、前者を「戦利品」、後者を「軍需品」と呼びながら事実を歪ませようとすることは、強制連行は存在しなかったとする論理と相通じるものがある。
「強制性」の概念を各所で濫用している。
国際社会は戦時性暴力を戦争犯罪や人道に反する犯罪と規定しており、かつて連合国統制委員会法律第10号が強姦や非人道的行為、残酷な行為程度で表現した性暴力を、最近の国際刑事裁判所に関するローマ規程は「強姦、性的奴隷化、強制売春、強制妊娠、強制不妊、深刻な性暴力」などと具体化している(第7条、第8条参照)。
朴教授が慰安婦という概念をいかに美化しても、性暴力の範疇から外れることはない。

 

5. アジア平和基金

 

朴教授は、アジア平和基金(1997-2007)の意義を高く評価する。
平和基金は、いわゆる首相の謝罪文と一定の見舞金を慰安婦に提供するための財団だった。
日本政府だけでなく、多くの市民、政治家、知識人たちがこの基金に寄付したとされる。
朴教授は、日本の責任を徹底的に否定する保守勢力と日本の責任を履行しようとする良心勢力との間の避けられない妥協であったと描写する。
だから、朴教授は韓国人がそれ以上を要求することは合理的でないと批判する。
筆者も平和基金が慰安婦問題について、日本の中で最も発展的な形態の責任の履行の試みであったと評価する。
ところが、韓国の挺対協が主軸になって慰安婦被害者たちに平和基金が提供するお金を受領しないように誘導し、台湾と韓国の慰安婦たちは、受領を拒否することに至った。
朴教授は、挺対協のような拒否行為が善良な日本人たちに傷を与えて反韓の雰囲気をもたらしたと指摘し、挺対協や日本の左派が被害者の人権を侵害して犠牲者を社会改革の道具にしたと批判した。
しかし、挺身隊対策協の問題提起が朴教授の批判通り不適切だったのだろうか。
平和基金は、「法的責任」を履行しようとする方法に該当しない。
公式的な法的責任を追及する被害者に法的責任を否定し、被害者に慰労金を支給するということは、被害者を侮辱するものだ。
朴教授の主張のように、そのお金の大部分が実質的に政府から出てきたとしても、それは正式な国家の責任でもなく、法的な責任でもない。
そこに首相の謝罪文が同封されていたとして変わらない。
「国民基金」といっても事態は変わらない。
カボチャに線をひいても、スイカにならないのと同じだ。

被害者たちの中には、生活に困窮して特に悩むことなく基金のお金を受領した場合や、そのお金と首相の謝罪文を法的責任の認定だと誤解した場合があり得る。
善良な日本人の心の傷を挙げるが、慰安婦被害者たちの境遇と立場を個別に撃破する方式で対応する日本の態度は反則というほかない。
それなのに慰安婦問題は被害者個人の人権問題だというふうに主張することは的外れもいいところだ。
法的責任が存在すると考える人にとっては、犯罪の真実と法的責任を否定しながら提供されたお金を拒否することは、道徳的に当然の態度だ。
運動団体らが慰安婦被害者らを放置し、唐突に政治的大儀を掲げて被害者を道具化したという批判は行き過ぎている。
平和基金を拒否する過程で韓国政府は慰安婦被害者の生活支援に乗り出しており、挺対協は、政府にそのような措置を適切に促していたと記憶している。
韓国と台湾の被害者たちには、法的責任の認定は、自尊心の問題だった。
原則から外れ、変則を駆使した日本は問題の本質をないがしろにしている。

 

人権と民主主義に徹底して献身するという社会的大義を打ち立てることが肝心だ。
朴教授の考えと違って、被害者は道具化されたわけではない。
人権被害の救済の主眼点は賠償にあるのではなく、人権尊重の社会を形作り、再発防止の保証をすることにある。
重大な人権侵害事件において、個人的救済の次元と公的な救済の次元が同時に存在する。
国連総会が採択した「被害者権利章典」はこの二つの側面を重視している。
そのような人権侵害が二度と発生しない社会構造を作り、国際秩序を形成することに対して、人類がその権利を持っていると解釈できる。
法的責任を認めることを拒否する国家の次善策を拒否した挺対協の方針は、被害者権利章典の趣旨に符合している。

 

日本が法的責任を認め、公式的な謝罪を行える社会になる日がいつになるかは分からない。
しかし日本が人権と民主主義をさらに徹底する国となり、その過程で、自然に慰安婦被害者への法的責任を認め、公式的な謝罪を行えるようになることを希望している。
その謝罪は日本が誇るべき成果となるはずだ。
内部的な変化なくして、外交的に得られた謝罪に意味があるだろうか?内的な成熟に基づく謝罪のみが、日本のみならず韓国ならび東北アジア全体の平和に寄与できる。
慰安婦被害者たちが挺対協により無理やり闘士にされたという印象は正しくない。
彼女らにも残された時間を使って社会的大儀を打ち立てることが可能なのだ。
彼女らをいつまでも無力な被害者や非主体として扱うべきではない。
彼女らは大儀を作り、闘争し、愛し、分け合うことで過去を克服しているように見える。
実際に慰安婦問題が韓日間の懸案として浮上したことは、性売買、性暴力、セクハラなど性的問題に対して韓国社会全般を省察させる機会を与えた。

最近、日本共産党の議員が慰安婦問題に関連して新たな特別法案を提出したそうする。
そういった法案がすぐに通過されることを期待するのは難しいが、真実究明、公式謝罪、法的責任の履行、教科書収録と市民教育などを入れる法案であってほしい。
このような条件の上で生存している被害者が、加害者としての日本政府と、集団としての日本を、個人的にも許すことができれば良いだろう。

 

6. 結び

 

朴裕河の<帝国の慰安婦>は最近出てきた著作の中で責任について最も多く言及した本だ。
しかし、最も基本的な責任は、法的な責任であり、行為の責任だと考える。
筆者が法学者であるからでない。
過去の誤りを明らかにして責任を果たそうということと、それとは関係なく、現実をより良い方向に改善しようというのは、次元が違う。
筆者は、法的責任を伴わない責任論の真正性を疑う。
だからといって、法的責任の万能論を説いているのではない。
法的責任を排除した議論は、実際に責任を曖昧にしたり空虚にする事がないか、疑うということだ。
韓日関係の過去の歴史に関連した責任論は、特に疑問を買うのに十分だ。

日本学者の主流派は、法的責任を否定し、その否定に基づく道義的責任や人道的責任を論じているようだ。

法的責任がないならそれで済むことだ。
なぜ人道的責任を履行しようとするのか分からない。
朴教授も日本が法的な間違いを犯していないと思うなら、日本に別の責任を履行しろと主張してはならない。


日本軍慰安婦に対する日本の責任を論じる際に、朴教授は朝鮮人業者、朝鮮人軍人を言及し、朝鮮人の父親の人身売買を非難し、貧乏、階級を非難し、家父長制を非難し、韓国戦争でも維持された韓国軍慰安婦、洋公主、韓国の性売買の慣行を言及した。
その指摘はすべて正しいが、それが日本軍慰安婦の責任を認めるか否定する論拠になり得るかが問題だ。
また、善良な日本人を繰り返し言及した。
慰安所で慰安婦にお小遣いを与え、兄妹のように接した善良な日本軍人、慰安婦お婆さんたちが生活しているナヌムの家でボランティア活動をする善良な日本人、アジア平和基金に自発的に寄付した善良な日本人、そのような基金を作るために積極的に努力した良識的な日本人を言及している。
彼らは賞賛されるべき人々だ。
日本人がすべて悪意を持っていたはずもなければ、すべての日本人が悪いと言えるわけがない。
そもそも、そんなふうに考える人は、いないのではないか。

 

朴教授が強調する様々な事例と側面を検討しても、慰安所が人道に反する犯罪としての性奴隷制だという総合判断を覆すことは出きそうにない。
朴教授は総合判断を覆せないことを察していながら、周辺的情況を並び立てることにより総合判断を揺さぶる。
文学的には国際人道法と国際人権法にとらわれる必要はないが、倫理的結論として、国際人道法を無視しようとする試みは止めなければならない。
それらの規範は、戦勝国であるアメリカの一方的判断によるものではなく、20世紀の野蛮と暴力に対する人類の総合判断であるからだ。
歴史の記述者の責任は、すべてを正直に記録することにある。
しかし、主要な事実と周辺的な事実を区別して配置する過程において感情が作用するなら、感情を一旦落ち着かせる必要があるのではないだろうか。
知性の誤りの訂正は容易だが、一度定まった感性の誤りの訂正は難しいからだ。

 

建国大学校 法学専門大学院 イ・ジェスン教授

 

감정의 혼란과 착종: 위안부에 대한 잘못된 키질(2013年9月28日)