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Q&A 2 慰安所における実態 | Fight for Justice 日本軍「慰安婦」―忘却への抵抗・未来の責任

Fight for Justice

Fight for Justiceサイトがアクセスできなくなる時があるため、バックアップ的に記載いたします。本サイトは下記です。

Q&A | Fight for Justice 日本軍「慰安婦」―忘却への抵抗・未来の責任

 

2 慰安所における実態

 

 

2-1 文書がないから事実(被害)を証明できないか?

「文書がないから事実を証明できない」という、日本軍「慰安婦」制度の被害を否定する主張に対しては、さまざまな観点から反論することができます。とくにここでは、事実を証明する証拠は文書だけではない、文書に残らない、記録になじまない分野があり、それらの事実は証言によってこそ明らかにされる(オーラルヒストリーの重要性)という観点を中心にして述べたいと思います。

 

この観点からみる慰安所の実態 

日本軍「慰安婦」問題において軍慰安所での強制的実態こそ、強制連行の有無より本質的であることは言うまでもありません。第二次調査公表時(1993年)の発表文では、「常時軍の管理下において軍と共に行動させられており、自由もない痛ましい生活を強いられていた」、同時発表の「河野談話」では「強制的な状況の下での痛ましいものであった。」と記された慰安所の実態は、どのようなものだったでしょうか。

 

慰安所の実態は、「慰安所規定」という軍の文書からも、外出・散歩の自由がなかった(例:マンダレー慰安所規定ほか)などが明らかになりますが、慰安所での日常生活、個人的体験、精神的ストレスなどについては、まさに文書には残らない分野であり、証言によってしか明らかにされ得ない事実です。提訴された10件の日本軍「慰安婦」裁判のうち、フィリピンと台湾を除く8件の裁判の判決では、被害者の証言(陳述や供述)が吟味・判断されて、35人の被害が一人ひとり具体的に「事実」として認定されています。

 

判決では、慰安所の実態はどのように認定されたのか 

ここでは二つの例を紹介します。(1)は比較的に都市にあり、軍司令部・師団などが設置・管理し、多くは業者に運営させる整備された慰安所で、日本人女性や植民地の女性が多く連行された軍慰安所の例、(2)は軍慰安所のない前線に配置された部隊が、付近の女性を暴力的に駐屯地等に拉致・監禁し、自力で設置した慰安所もどきのもので、中国・フィリピンなど占領地の女性が被害に遭った例です。以下、〔 〕内は要約です。

 

宋神道(イラスト)_s(1)宋神道さん 在日韓国人元従軍慰安婦謝罪・補償請求裁判 東京地裁判決(1999年)
「〔1938年、数えの17歳の時、「戦地で働けば金がもうかる」と騙され、中国の武昌の陸軍慰安所に連行される。〕泣いて抗ったが〔無駄で、逃亡の度に〕殴る蹴るなどの制裁を加えられたため、否応なく軍人の相手を続けざるを得なかった。軍人が慰安所に来る時間帯は、兵士が朝から夕方まで、下士官が夕方から午後9時まで、将校がそれ以後と決められており……連日のように朝から晩まで軍人の相手をさせられた。〔日曜日や通過部隊がある時は〕数十人に達することもあった。軍人の中には、些細なことで激昂して原告に軍刀を突きつけたり、殴る蹴るの暴行を加えるものもあった。〔その刀傷痕、呼び名の金子の刺青痕、帳場や軍人による繰り返しの殴打によって右耳が聞こえないなどの後遺症がある。〕軍人は避妊具の使用を義務付けられていたが、使用しない者もあったため、性病にかかり、妊娠する慰安婦もいた。〔宋さんも何度も妊娠し、生まれた子は養子に出した。その後、漢口、岳州、長安などの〕各慰安所に移され、敗戦まで醜業に就くことを余儀なくされた。」 (注:被害期間は7年)

 

(2)郭喜翠さん 中国人「慰安婦」損害賠償請求事件(二次)東京地裁判決(2002年)

「〔1942年7月、八路軍の協力者であった義兄の家が襲われ、同居の郭さんも日本軍の拠点に暴力的に連行され、隊長に二度強かんされた。15歳で初潮もまだだった〕郭は陰部から出血し、その夜は痛みと恐怖心から眠ることができなかった。……郭は、引き続き監禁され、日中は複数の日本兵又は清郷隊員(日本に協力した武装組織)に輪姦され、その際、日本兵によって陰部を切断されたこともあり、夜から未明にかけては隊長や清郷隊の幹部らに強姦された。郭は、度重なる強姦と監禁により衰弱し、……何の治療も受けなかったために切断された部位が化膿し、発熱したり浮腫が全身に広がるなどした。〔半月後〕郭は動くこともできないほど衰弱し、家族が清郷隊に銀五〇元を支払って……解放された。……一週間も経たないうちに、……隊長が郭の所在を確認するため姉の家に来た。……同じ場所に再び監禁され、隊長ら日本兵に強姦された。その後、郭は、健康状態の悪化により解放された。その後、郭は三たび……連行され、……監禁、強姦、輪姦の被害に遭った。郭は、同年九月中旬頃解放され〔今度は別の村に隠れ、被害を免れた〕現在、……重度のPTSDの症状が認められる。」(注:被害期間は3カ月)

 

なお、中国人裁判(一次)の東京高裁判決も、「駐屯地近くに住む中国人女性(少女も含む)を強制的に拉致・連行して、監禁状態にして連日強姦を繰り返す行為、いわゆる慰安婦状態にする事件があった」と、総括的に記述したうえ、各人の被害を認定しています。

 

事実認定による軍慰安所の実態

以上、事実認定によって明らかにされた軍慰安所の実態をまとめると、

 

まず、①拒否できない性行為の強制。宋さんは上記のほか、「明日、明後日産むくらいの体でも、軍人の相手しなきゃ殴られる」と証言。「抵抗すると殴る・蹴る、タバコの火を押し付ける(顔にも)……など暴力を振るわれ」た海南島の林亜金さんなどほとんどです。こうして暴力によって性行為が強制されていて、朝から晩まで一日十数人~30、40人。日曜日や通過部隊がある時は数十人。50人という例(盧清子さん)もあります。私たちもこれらを言葉や数字でなく、わが身に置きかえ痛さ・辛さ・恐怖として想像してみれば、被害者がよく言われる「人間ではなかった!」状態、まさに性奴隷だと実感されるのではないでしょうか。

 

次に、②廃業の自由についてですが、植民地の被害者の場合、ほとんどが日本の敗戦によって解放(廃業)されたと認定されています(七、八年の長期間の人も)。つまり、敗戦まで廃業の自由がなかった証拠です。文書上も、「慰安所規定」には廃業の規定は書かれていない(吉見義明さん)こと、「軍政監部」の慰安婦施設関係資料には「……稼業婦(注:慰安婦)にして廃業せんとするときは、地方長官に願い出てその許可を受けるべし」とあり、許可制で自由に廃業はできない(泥憲和さん)ことからも、この自由は問題外と言えます。実際、廃業するには逃亡しかなかったのですが、言葉も地理もわからない外国での逃亡は不可能であり、また、失敗した時の苛烈な制裁は廃業の意思すら奪いました。殴る、蹴る、樫の棍棒で頭や体を殴打するなどは普通で、海南島の陳金玉さん・黄玉鳳さんは、制裁として、「腹の下に刃を上に向けた軍刀の抜き身を置かれ、そのうえで腕立て伏せのような格好をさせられ、身体を上げて楽な姿勢をとると棒で腰を叩く」という残酷な暴力も振るわれています。占領地の被害者は、圧倒的な武装日本軍の直接的な暴力による監禁状態にあり、山西省での場合、郭さんのように解放というのは、ほとんどが衰弱して「慰安婦」の役に立たなくなって捨てられるように、それも日本軍などに数百銀元を渡すのと交換になされています。廃業という言葉自体ナンセンスでした。③居住の自由などがあるはずがないことは前述からも明らかです。④日常的に暴力と背中合わせの生活。抵抗すれば刀で斬られる、酒を飲んで暴れる兵、心中を迫る兵などによる大けが、今も後遺症に悩まされています。判決にはありませんが、殺された人もいます。⑤貧しい食事。⑥子宮病や妊娠・性病などの危険性。放置または不十分な治療。⑦敗戦後の置去り。これらを考えれば、慰安所の実態は重大な人権侵害であり、まさしく性奴隷と言えるもので、「河野談話」の表現を裏づけるものです。関釜裁判下関判決(1998年)では結論的に「政策的、制度的に軍人との性行為を強要したものであるから……極めて反人道的かつ醜悪な行為であったことは明白」「いわゆるナチスの蛮行にも準ずべき重大な人権侵害であって……損害を放置することは新たに人権侵害を引き起こすこと」であるとして唯一、勝訴判決をしています。この認識は国際社会の認識です。

 

判決は証言をどう判断したか

証言を認定する根拠は、ほかの証拠(背景事情・現場写真・文書資料・目撃者証言・研究者証言など)と照らし合わせて吟味するとともに、下関判決では、以下のように述べられています。

 

「〔不十分な教育からか断片的、視野の狭い証言ではあるが〕かえって、原告らは……屈辱の過去を長く隠し続け、本訴にいたって初めて明らかにした事実とその重みに鑑みれば、……むしろ、同原告らの打ち消し難い原体験に属するものとして、その信用性は高いと評価され」る。

 

河野_sもう一つ河野洋平元官房長官の言葉をあげましょう。

 

「もう明らかに厳しい目にあった人でなければできないような状況説明が次から次へと出てくる。その状況を考えれば、この話は信憑性がある、信頼するに十分足りるというふうに、いろんな角度から見てもそう言えるということがわかってきました」

 

以上、「文書がないから、その事実(被害)を証明できない。だから、そういう事実(被害)はない」という論理は成立せず、何よりも日本の司法が被害者の“証言”の信用性を評価して、被害事実を、軍慰安所での強制的実態を具体的に認定していることを多くの方々に知っていただきたいと思います。

 

 

2-2 日本軍は女性を保護したか?

 

1938年3月4日の陸軍省副官通牒「軍慰安所従業婦等募集に関する件」は、中国にいる派遣軍(北支那方面軍・中支那派遣軍)が選定した業者が日本内地で誘拐まがいの方法で「慰安婦」を集めるという事件が起きたため、今後は、派遣軍は、業者の選定を厳密にし、募集にあたっては憲兵・警察との連繋を緊密にするように指示しています。

 

2-1-7a 史料 陸軍省副官通牒19380304-1

副官通牒

2-1-7a 史料 陸軍省副官通牒19380304-32-1-7a 史料 陸軍省副官通牒19380304-2

 

この通牒が意味していることはつぎのふたつのいずれかでしょう。ひとつは、以後、この通牒に従って、派遣軍の指示により、日本・台湾・朝鮮では憲兵・警察と連繋を緊密にして、軍が選定した業者による「慰安婦」の徴募が行なわれたということです。

 

しかし、朝鮮・台湾では、業者による人身売買・誘拐などによる女性たちの国外移送や満21歳未満の女性の移送が多発したことは事実です。これは犯罪あるいは違法行為ですが、そうすると、憲兵・警察は共犯者ということになります。派遣軍または朝鮮・台湾の憲兵・警察は、業者を利用して女性たちを集めさせているので、主犯ということにもなるでしょう。

 

もうひとつの場合ですが、日本内地では連携を厳密にして違法行為を取り締まったが、朝鮮・台湾では黙認した、ということも考えられます。日本内地で問題が起こると日本軍の威信を傷つけることになると通牒は指摘しているので、この方が実情に近いかもしれません。しかし、この場合の責任も同じでしょう。

 

この通牒が出された後で起こったことを含めて考えれば、この通牒から読み取れることは、このふたつ以外には考えられません。

 

この通牒は、その後の「慰安婦」徴募について多大な影響を与えたものであり、とりわけ軍が「慰安婦」徴募を統制していた証拠(徴募における軍の深い関与を明示するもの)です。「軍が業者の乱暴な募集を止めさせた証拠だ」という、一部にある読み方は誤りというほかありません。

 

また、慰安所は軍のために、軍の施設として、軍がつくったものです。業者に慰安所の経営をまかせる場合も、慰安所の運営について軍は監督・統制をしています。慰安所は、居住の自由、外出の自由、廃業の自由(自由廃業)、拒否する自由がない性奴隷制制度でした。このような施設をつくり、そこに女性たちを閉じ込めて、軍人の性の相手をさせたのですから、軍には重大な責任があることになります。

 

軍がこのような施設をつくらなければ、女性に対する重大な人権侵害はそもそも起こらなかったわけですから、「良い関与」というのはありえないことになるでしょう。

 

2-3 警察は「慰安婦」を保護?

1938年2月23日の内務省警保局長通牒「支那渡航婦女の取扱に関する件」は、今後、「醜業」(売春)を目的とする女性の中国渡航(事実上「慰安婦」の中国渡航を意味する)については、満21歳以上で、かつ現に「醜業」に従事している者に限り黙認するという制限を課しています。また、女性たちに身分証明書を発行する時には「婦女売買又は略取誘拐等の事実なき様特に留意すること」と指示しています。内務省は、「慰安婦」を送り出す際に、婦人・児童の売買禁止に関する条約や刑法第226条に違反することがないように注意しているのです。犯罪防止に努めようとしているようにみえます。

 

しかし、この通牒は、日本内地でしか出されませんでした。なぜなら、日本は、婦人児童の売買禁止に関する国際条約に加入していたので、このような制限をしたのですが、この条約に加入する時に、植民地(朝鮮・台湾)には適用しないという条件を付けていたからです。このように、朝鮮・台湾では制限はしなかったのです。こうして、朝鮮・台湾からは、21歳未満の未成年者や、売春経験のない女性たちが数多く「慰安婦」として送り出されたのです。

 

書映2武漢兵站_s

山田清吉『武漢兵站』

漢口兵站司令部の副官で、軍慰安所係長であった山田清吉大尉(着任当時は少尉)は、日本内地からきた「慰安婦」は、だいたい娼妓・芸妓・女給などの前歴のある20歳から27歳の妓が多かったが、朝鮮から来た者は「〔売春の〕前歴もなく、年齢も十八、九の若い妓が多かった」と記しています(山田清吉『武漢兵站』図書出版社)。売春の前歴のない女性や21歳未満の女性という、日本内地からの渡航は禁止されている女性たちが、植民地からは数多く連れ出されている、ということがよく分ります。

 

なお、日本の外務省の資料によれば、1940年には、6名の台湾人女性が中国広東省に「慰安婦」として送られていますが、その年齢は、18歳(1名)・16歳(2名)・15歳(1名)・14歳(2名)でした。

 

こうして、この通牒は、すくなくとも朝鮮・台湾では「よい関与」を示すものではない、ということになります。逆に、派遣軍が作り始めた「慰安婦」制度を日本政府が黙認したものであって、女性たちに対する人権侵害に関して、日本軍とともに日本政府に責任があることを示すものというべきでしょう。

 

内務省警保局長の通牒では、女性たちの募集・周旋の際、軍の諒解とか軍との連絡があるという者は厳重に取り締まると言っていることも重要です。日本政府は、軍が集めさせているということ自体を隠そうとしているのです。

 

なお、この通牒が出されたにもかかわらず、それが厳密には遵守されなかったということ指摘しておきたいと思います。中国の山海関領事館の佐々木高義副領事は、1938年5月に売春を目的とする芸妓3名が警察発行の身分証明書を持っているのでやむなく通過を認めたが、全員通牒が禁止している21歳未満だった、このようなケースは他にも二、三あった、と報告しています(佐々木副領事「支那渡航婦女の取扱に関する件」1938年5月12日)。また、長沢健一軍医が検診したある女性は、日本内地からきた、売春経験のない女性でしたが、そのまま「慰安婦」にされています(長沢『漢口慰安所』図書出版社)。秦郁彦氏が「信頼性が高いと判断して選んだ」証言によると、1941年に「部隊の炊事手伝いなどをして帰る」といわれて大陸慰問団として済南に来た日本人女性約200名が「皇軍相手の売春婦」にさせられた、といいます(秦『慰安婦と戦場の性』新潮社)。

 

通牒が出されたにもかかわらず、日本人女性でもこのような目にあっているのです。通牒が出されなかった朝鮮・台湾の女性がどのような目にあったか、自ずから明らかではないでしょうか。

2-1-8a 史料 内務省警保局長通牒19380223-1

資料1 内務省警保局長通牒「支那渡航婦女の取扱に関する件」1938年2月23日

2-1-8a 史料 内務省警保局長通牒19380223-2 2-1-8a 史料 内務省警保局長通牒19380223-3

2-1-8b 史料 その1

資料 台湾・高雄州知事「渡支事由証明書等の取寄不能と認めらるゝ対岸地域への渡航者の取扱に関する件」1940年8月23日、外務省外交史料館所蔵、吉見義明編『従軍慰安婦資料集』(大月書店より)。

2-1-8b 史料  その2

2-4 業者を処罰?

女性たちをその意思に反して慰安婦にした業者が、警察によって取り締まられたことを示す新聞記事や、女性たちが自由意思で応募したことを示す新聞広告がある?

 

櫻井よしこさんらの歴史事実委員会は、『東亜日報』1939年8月31日の新聞記事(資料参照)を取り上げて、女性の意思に反して「慰安婦」になることを強制した業者を警察が取り締まっていると述べています(『ワシントンポスト』2007年6月14日の広告)。この新聞記事はハングルの原文と英訳を付して紹介されています。朝鮮釜山の警察が女性を国外に誘拐する業者を逮捕したというものです。これは女性たちをその意思に反して慰安婦にした業者が、警察によって逮捕されたことを示すものでしょうか。

 

同様の記事はこのほかにもいくつかあることが知られています。女性の誘拐や人身売買による国外への連れ出しは、刑法第226条に違反する犯罪でしたから、警察が取り締まるのは当然のことです。しかし、問題は、これが、「慰安婦」に関するものであるかどうかです。記事の全文はつぎのようなものです。

 

悪徳紹介業者が跋扈/農村婦女子を誘拐/被害女性が百名を突破する/釜山刑事、奉天に急行

【釜山】満州に女娘子軍が大挙進出して、その相場がすこぶる高くなるとして、朝鮮内地の農村から生活の苦しい婦女子を、都会で潜伏活動するいわゆる紹介業者が限りなく跋扈(ばっこ)し、最近、釜山府内でも悪徳紹介業者四五人が結託して、純真な婦女子を甘言利説を用いて誘惑し、満州方面に売った数が百人を超えるとされ、釜山署事犯係が厳重取調べを行なっていたところ、同事件の関係者である奉天の某紹介所業者を逮捕するため、去る二八日夜にユ警部補以下刑事六人が奉天に急行したという。同犯人を逮捕したら、悪魔のような彼らの活動経緯が完全に暴露されるだろうとのことだ。

一読すれば明らかなように、「女娘子軍」とあるだけで、どこにも「慰安婦」だとは書かれていません。「女娘子軍」は、軍の「慰安婦」をさす場合もありますが、軍とは関係ない民間の「売春婦」をさす場合もあります。これを「慰安婦」だと断定するのはミスリードでしょう。この記事が示すのは、刑法の国外移送目的誘拐罪に該当する犯罪を警察が取り締まっていたということです。

 

しかし、重要なポイントは、それにもかかわらず、略取・誘拐や人身売買によって朝鮮から国外に移送される「慰安婦」が数多く生れたのはなぜか、ということでしょう。その理由は、軍か警察が選定し、身分証明書を持つ業者が集めた場合は黙認し、持たない業者が集めた場合は摘発したということでしょう。また、軍の後ろ盾のない業者が行う国外移送も、摘発されるのは一部だったのではないでしょうか。

 

次に、「慰安婦」募集の広告が当時の朝鮮の新聞に載っているので、女性たちは自由意志で応募したことは明らかで、収入もよかった、という一部に広まっている意見についても、念のために検討しておきましょう(「慰安婦募集広告と強制連行命令書の有無 現代史家秦郁彦氏に聞く」2007年3月2日)。その新聞広告とは、『京城日報』(1944年7月27日)と『毎日新報』(1944年10月27日)に載っている広告のことです。

 

『京城日報』の方は、年齢17歳以上23歳まで、勤め先は「後方○○隊慰安部」、月収は300円以上となっています。募集しているのは今井紹介所という所で、紹介業者(人身取引業者)です。『毎日新報』の方は、年齢18歳以上30歳までとなっており、月収は書かれていません。募集しているのは許氏とあるので、朝鮮人の紹介業者でしょう。

 

まず、月収300円はとても高収入だというのですが、これは人身取引業者がよく使うきたない甘言の常套(じょうとう)手段です。それを事実だと信じるのはどうかしているのではないでしょうか。1937年3月に大審院で有罪が確定した業者の場合ですが、1932年にすでに月収は200円から300円になるといって長崎の女性たちを誘拐したという前例があるのです。

 

つぎに、女性たちがこの新聞を読んで応募したと考えるのもどうかしています。「慰安婦」にされた少女たちは1920年代に生まれて、1920年代後半から1930年代に学齢期をむかえました。しかし、日本と違って、植民地朝鮮では、義務教育制ではなかったので、普通学校(初等学校のこと)に通うには高い授業料が必要でしたし、学校自体も不足していました。また、朝鮮総督府でも朝鮮社会でも女子に教育いらないという考えが根強かったのです。女子の就学率が10%を超えるのは1933年頃からです。「慰安婦」にされた少女たちのほとんどは文字を読むことができなかったのです。また、親族の少女を人身売買しなければならないような貧しい家が新聞を購読しているということもありえないことです。

 

では、業者は誰を対象にしてこの広告をだしたのでしょうか。それは、他の人身取引業者(下請業者)への呼掛けだったのです。もう一つ重要なことは、『京城日報』も『毎日新報』も朝鮮総督府の事実上の機関紙であったことです。とすれば、この広告は、国外移送を目的とする「慰安婦」を公然と募集するものであり、「慰安婦」の募集に限って、総督府が認めていたことを示すものだということです。広告主は、軍が選定した募集業者と考えるほかありません。この募集業者の呼びかけに応じた下請業者が女性たちを集める場合、人身売買や誘拐等によって集めるのがほとんどでしたから、これは、それを総督府が黙認したという証拠になるでしょう。

 

『京城日報』には、「月収三〇〇円以上(前借三〇〇〇円迄可)」と日本語で書いてありますが、これは日本語が読める業者への呼びかけです。同じ広告が、23日・24日・26日と連続して出されていること、その前後にはないことから、この時期に軍が「慰安婦」を必要として、急いで集めさせたものと思われます。24日から「前借三〇〇〇円迄可」という文が追加されたのも重要です。これは下請業者に人身売買の資金を提供するという呼びかけだからです。この広告は、朝鮮総督府が国外移送目的の人身売買と誘拐を、「慰安婦」移送については、黙認していたということをさらによく示すものといえるでしょう。

 

また、婦人・児童の売買禁止に関する国際条約が禁止している21歳未満の女性の国外移送も公然と行われおり、朝鮮総督府もそれを認めていたことをしめす証拠となる新聞広告であることも重要です。

 

 

2-5 「従軍慰安婦」というのは存在しない?

「慰安婦」「慰安所」という言葉が使われていたことを示す、日本軍と外務省の文書

「従軍慰安婦」を教科書から削除するように要求する理由の一つが、「従軍慰安婦」という「言葉自体が存在しなかった」し、「従軍」という言葉は「軍属の身分を指し示す言葉」であるから不適切だというものです(藤岡信勝「文部大臣への公開書簡」)。
しかし本当にそうでしょうか。当時の日本軍は彼女たちのことを初めのころは「酌婦」「慰安所従業婦」などいろいろな言い方で呼んでいましたが、「慰安婦」と呼ぶことが一般的でした。彼女たちのいる場所は「慰安所」「軍慰安所」と呼ばれていました。

 

「従軍慰安婦」という言葉は、この問題の先駆的な研究である千田夏光氏の『従軍慰安婦』(初版は1973年)が使いはじめ、その後広く使われるようになりました。日本軍の行くところ、どこにでも連れられていくありさまは「従軍」という言葉がピッタリだったからでしょう。

 

しかし1990年代に入ってから、「従軍」という言葉は女性が自発的についていったというニュアンスがあり、また「慰安」という言葉も実態にあわないという批判が戦争責任問題に取り組んでいる人たちから出てきました。女性たちは無理やり性的相手を強制された性犯罪の被害であり、けっして「慰安」したのではない、実態とはかけはなれた、欺瞞的な言葉だという問題があります。そこで「慰安婦」に代わって「性的奴隷」や「(軍用)性奴隷」という呼び方も使われるようになってきました。
しかし一方では、実態とは違うけれども歴史上そのように呼ばれていたのは事実であり、日本軍が欺瞞的にそういう表現をしていたことは歴史の事実として記録する必要があるとも言えるかもしれません。ただ「従軍」という言葉を避け、かつその主体をはっきりさせるために「日本軍慰安婦」という言葉を使うことが多くなってきました。

 

「慰安婦」「慰安所」という言葉が使われていたことを示す、日本軍と外務省の文書

しかし「従軍慰安婦」という言葉がまちがいであるとはいえません。「従軍」には「軍属」という意味が含まれていないことは少し調べればわかることです。また「従軍看護婦」「従軍記者」「従軍作家」などの例を見ても、徴用で無理やり召集された人たちもいますから、「自発的」という意味があるという主張は成り立たないでしょう。軍隊本体ではないけれど、軍隊が行くところに従っていく人たちという意味で、「従軍慰安婦」という表現は、実態を適確に表現しているとも言えます(この点は論者によって評価が分かれるところですが)。

 

千田夏光『従軍慰安婦』(講談社文庫版、1984年)

当時そういう言葉がなかったから使うべきではないというのならば歴史を書くことはできません。たとえば第一次世界大戦や第一次護憲運動、日清戦争、日露戦争、日中戦争、幕藩体制、縄文時代、弥生時代をはじめ、歴史で使う言葉の多くがあとから作られた言葉であることは言うまでもありません。
「従軍慰安婦」という言葉は当時なかったから、そんなものは存在しなかった、とか、教科書に書くなという議論は歴史をまったくわかっていない、こっけいな議論でしかありません。

 

2-6 スマラン事件で日本軍は責任者を罰した?

歴史事実委員会が『ワシントンポスト』(2007年6月14日)に出した広告では、「〔スマラン事件に関与した〕責任ある将校たちは処罰された」と書かれています。これは事実でしょうか。

 

事件が発覚してから、間もなくここの慰安所は閉鎖されました(1944年2月開設、約2ヵ月後に閉鎖)。しかし、注意とか譴責はあったかも知れませんが、厳重な処罰はなされていません。

 

その証拠に、管轄する部隊のトップは、南方軍幹部候補生隊隊長兼スマラン駐屯地司令官の能崎清次少将でしたが、彼は、事件の直後の6月に独立混成第56旅団長になり、1945年3月には中将に昇進しています。4月には第152師団長に就任して、内地に帰り、千葉県銚子附近で本土決戦に備えているのです。

 

また、たとえば、オランダによるBC級戦犯裁判で10年の懲役刑を受けた幹部候補生隊副官の河村千代松大尉は、1944年12月には少佐に昇進しています。

 

処罰されていればありえない処遇です。

 

2-7 「慰安婦」は厚遇されていた?

日本軍「慰安婦」は厚遇されていたという人たちがあげる文書に米戦時情報局のレポートがあります。これは、アメリカの戦時情報局Office of War Information(OWI)のReport, No.49(日本人捕虜尋問報告)1944.10.1付、のことです。このレポートの内容を見ながら、はたして、“厚遇”していた証拠になるものなのかどうか、検証してみましょう。

 

2-1-12a 史料

(出典)米戦時情報局Office of War Information(OWI)のReport, No.49(日本人捕虜尋問報告)1944.10.1付


1 差別・奴隷制を見るときの留意点

現在の女性の人身売買・強制売春の犠牲者の中からも、ごくわずかであるが成功する者は出ます(たとえば大金をためて郷里に送金する者や、自らが売春宿経営者になる者など)。黒人奴隷制においても、成功する黒人がわずかではあるが出ました。歴史的に見ても、さまざまな差別・人権侵害の制度の下においても、差別される中からわずかな成功者が出てきます。しかし、その例をもって差別がなかったとは言えないですし、奴隷制はよかったのだと言うことはできないでしょう。ある制度や仕組みを正当化しようとする人は、例外的な成功例を持ち出すのですが、それにごまかされないような社会の見方が大切です。

 

2 OWIレポートを読むときの注意―レポートの作成のされ方の問題

ここでは朝鮮人慰安婦20名と日本人の業者2名が捕まり、かれらが尋問を受けているのですが、尋問担当者は日本語のできるスタッフです。業者は自分たちの行動を正当化しようとする傾向が働いているでしょうし、尋問担当者は日本語のスタッフであり、朝鮮語はまず理解できなかったでしょう。ですから当然、日本語のできる業者の言い分が強く入っていると見られます。

 

3 そうしたレポートであったとしても、よく読むと、次のようなことがわかります(「 」の中はレポートからの引用です)。

① 女性たちはだまされて募集されていた。つまりうその説明がなされていたことがわかります。

「病院にいる負傷兵を見舞い、包帯を巻いてやり、そして一般的に言えば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事であると考えられてきた。」

「楽な仕事と新天地―シンガポール―における新生活という将来性」

「このような偽りの説明を信じて、多くの女性が海外勤務に応募し、200-300円(a few hundred yen)の前渡金を受け取った。」

 

② 彼女たちの大部分は、それまで売春には関わっていなかったことがわかります。

「大部分は売春について無知、無教育であった。」

もちろんそれまで売春に関わっていたとしても、騙して連れて行ってよいということにはなりません。

 

③ 女性たちは前借金で縛られていたことがわかります。つまり人身売買がおこなわれていたことが明らかです。

「家族の借金返済に充てるために前渡しされた金額に応じて6ヶ月から1年にわたり、彼女たちを軍の規則と“慰安所の楼主”のための役務に束縛した」

 

④ 半数以上は未成年者でした。

尋問されたのは1944年8-9月です。彼女たちがビルマに連れてこられたのが1942年8月、つまりちょうど2年前です。20人の慰安婦のなかで、連行された時点において21歳未満の者は、12人います。

21歳未満の者、つまり国際法との関係で問題になる未成年者は、たとえ本人の同意があったとしても、売春目的で勧誘・誘引・誘拐した者は、婦人・児童の売買禁止に関する国際条約(1910年条約と1921年条約、日本も加入)に違反する犯罪でした。どう言い訳しようと、国際条約に違反する犯罪であったことが、この尋問記録からわかります。

なお日本はこうした国際条約に加盟する際に植民地を除外するという条件を付けていますが、だとしても、日本国籍の船舶を使って連れて行った場合は(ビルマに連れて行ったのは船を使っていますので)この条約が適用されますし、また植民地を除外すること自体が必ずしも適法とは言えません。かりに植民地だから適用されないという解釈をとるにしても、普通であれば犯罪になることを植民地の女性には平気でやるというのは、明らかに差別であり、それを正当化するのは自らが民族差別主義者であることを自白しているだけでしょう。

 

④ このレポートとセットの東南アジア翻訳尋問センターSEATIC Report No.2 を読むと、前借金を返済すれば帰国できる契約だったが、戦況のためという理由と、説得されて、帰国できた者はいませんでした。

 

4 以上、このレポートを読むと、売春をしていなかった女性たちが、騙されて(詐欺)、前借金で縛られて(人身売買)、連れてこられたことがわかります。騙して、あるいは人身売買によって女性を海外に連行したことがはっきりとわかり、これは当時の日本の刑法226条に違反する犯罪でした。しかも半数以上の女性は未成年であり、たとえ本人が同意していても国際条約にも違反する犯罪でした。

2-8 文玉珠(ムン・オクチュ)さんはビルマで大金持ちになった?

「慰安婦」は金儲けをしたのかのように言っているものがありますが、そういう主張の例に挙げられるのが、ビルマの慰安所に送られた文玉珠(ムン・オクチュ)さんが2万円以上貯金をしていたことです。2万数千円は現在の価値でいえば数億円にあたると吹聴している人さえいます。

 

またアメリカの戦時情報局Office of War Information(OWI)のレポート第49号(1944.10.1)や東南アジア翻訳尋問センターSEATICのレポート(1944.11.30)のなかで慰安婦の収入が月300円から1,500円ほどあったことも、その理由に挙げられています。ここでは、文さんのケースを検証しましょう。

 

1 ビルマにいた「慰安婦」が得たお金

ビルマで得た収入ですから、日本国内の円ではなく、ビルマで流通していた軍票または南方開発金庫券(南発券)です。後者は厳密に言えば、軍票ではありませんが、事実上は、軍票と変わらないし、日本人にも現地の人にも軍票として認識されていました。

マレー半島で使われていた軍票

 慰安婦の月収が1,500円ほどあっても、楼主に月750円を渡していました。また「多くの楼主は、食料、その他の物品の代金として慰安婦たちに多額の請求をしたため、彼女たちは生活困難に陥った」とあります。つまり慰安婦の生活は、「多額」の収入にもかかわらず楽ではなかったことが書かれています。その一因は業者による収奪ですが、それだけにはとどまりません。

 

3 物価水準

太平洋戦争が始まった1941年12月を100とした場合、物価指数は次のように変化しています。

 
  東京 ラングーン シンガポール バタビア
1944.6 121 3,635 4,469 1,279
1945.8 156 185,648 35,000 3,197

(日銀統計、安藤良雄編『近代日本経済史要覧』、岩武照彦『南方軍政下の経済施策』下)

 

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1942年の軍票発行段階では、1ルピー(ビルマ)=1ドル(マラヤ)=1円(国内)で設定されました。つまりビルマと日本の円は等価とされていました。

 

しかし、OWI レポートに記された「慰安婦」たちが捕まったのは1944年8月10日ですが、その直前の時点(1944.6)でのインフレは、東京に比べて、ビルマは約30倍でした。

 

したがって、「慰安婦」たちの月収が1500円としても、貨幣価値は東京では、1,500円÷30=50円程度にしかすぎません(下士官クラスの収入)。ですから1,500円の収入があったとしても、半分は楼主にとられ、さらに食料などで高い額を請求され、生活困難に陥ったのは当然と考えられます。

 

4 文玉珠さんの場合

文さんが2万円以上の貯金があるといっても、彼女が貯金を預け入れたのは、1945年4月に10,560円、1945年5月に10,000円などと、ほとんどが1945年に集中しています。

 

敗戦時には、東京の物価は、1.5倍の上昇にとどまっていたのに対して、ビルマは1800倍、つまり東京と比べて、1200倍のインフレでした。つまり、ビルマで貯めた2万数千円は、その1200分の1、つまり20円程度しか価値がなかったのです。なおビルマは、日本の占領地の中でも最もインフレがひどかった地域でした。

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5 物の値段

参考までに当時の現地での物の値段の例を紹介しておきましょう。

ビルマでの1945年初頭時点での物の値段は、次のようだったということです。

 

コーヒー 5 ルピー
背広1着 10,000 ルピー
シャツ1枚 300-400 ルピー
絹ロンジー1着 7,000-8,000 ルピー

(太田常蔵『ビルマにおける日本軍政史の研究』吉川弘文館)

 

さらにこの時点よりインフレは一層ひどくなりますから、2万円があっても背広1着も買えなかったでしょう。なお、太田氏は「20年〔1945年〕3月マンダレー失陥後は、軍票はほとんど無価値になってしまった」と記しています。文さんの貯金の大半は、軍票が無価値になった時期に将校たちからもらったものです。

 

ところでほかの地域での例も紹介しておきましょう。いずれもビルマほどにはインフレがひどくなかったことに留意してください。それにしてもひどいインフレで、日本軍に占領された東南アジア各地の経済が破壊されたことがよくわかります。

 

米 6kg 1942.12    $5 1945.8     $750
腕時計 1942.12  $85 1945.8  $10,000

 シンガポールでの物の価格(シンガポールの中学歴史教科書による)

 

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(出典)小林英夫『日本軍政下のアジア』岩波新書、p179

スマトラでは、ある将校の回想によると、将校の1か月の給料で、ラーメン1杯しか食べられなかったといいます(つまり、100円あるいはそれ以上)。

(小林英夫『日本軍政下のアジア』岩波新書、『証言集―日本占領下のインドネシア』)

 

6 ビルマで貯金したお金は?

占領地での通貨は、当初、円と等価とされていましたが、東南アジアなどインフレが進んだ地域のお金を等価で円に換えると為替差益で大もうけしてしまうので、それを規制するために、1945年2月に外資金庫を設立、東南アジアのインフレが日本国内に波及しないための措置がとられていました。つまりビルマで貯金をして、額面では多額になったとしても、日本円には交換できなかったし、しかも日本が負けると、軍票も南発券もただの紙切れになってしまいました。

 

7 したがって、ビルマでの事例を持ち出して「慰安婦」は金もうけをした、文さんは現在の価値で数億円もの大金持ちになったというのは、占領地の経済状況を無視した、まったくの空論にすぎません。占領地のひどいインフレは、少し調べればかんたんにわかることなのですが……。

 

 

2-9 一般の女性は守られた?

日本軍が慰安所を作った理由の一つが強姦を防止するためでした。だから一般の女性を守ることができてよかったのだという議論さえあります。はたして本当でしょうか。

 

日本軍が慰安所を中国各地に作りはじめたのは1937年の冬からでした。しかしそれから3年近くたった1940年9月に陸軍省が作成した文書によると(「支那事変の経験より観たる軍紀振作対策」)、依然として日本兵による「強姦」「強姦致死傷」が多いと指摘されています。

 

2-1-14c 軍紀振作対策 圧縮

「支那事変の経験より観たる軍紀振作対策」

 

アジア太平洋戦争が始まってから、東南アジアでも各地に慰安所を設置しましたが、開戦から9ヶ月たった1942年8月になっても「南方の犯罪610件。強姦罪多し。シナよりの転用部隊に多し。慰安設備不十分」(陸軍省の会議での法務局長の報告)と報告されるような状態で、1943年2月にも「強姦逃亡等増加せる」と報告されるようなありさまでした。

 

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 第62師団「石兵団会報」49号、1944.9.7

 

戦争末期の沖縄では、米軍の来襲に備えて日本軍が次々に増強されました。日本軍は当初から沖縄に慰安所を設置していきましたが、日本軍の資料によると「本島に於ても強姦罪多くなりあり」「性的非行の発生に鑑み…」というように地元女性への強姦などが相次ぎ、軍上層はくりかえし兵士たちに注意を発せざるをえませんでした(「石兵団会報」)。

 

日本兵による地元女性への強姦は慰安所設置にかかわらずずっと続いていたのです。

 

慰安所を利用することと地元女性への暴行はどのような関係にあったのでしょうか。中国の河北省と山西省についての研究によると(笠原十九司「中国戦線における日本軍の性犯罪」)、日本軍による強姦や強姦殺害は戦争中を通しておきています。ただその場合、日本軍が駐屯し支配していた「治安地区」では強姦は憲兵によって厳しく取締まられました。ここでは日本軍は善政を施していることを示す必要があったからです。

 

ところが抗日勢力が強く日本軍の力が及ばない地域は「敵性地区」と呼ばれていました。ここでは日本軍はいわゆる「三光作戦(殺し尽くし、焼き尽くし、奪い尽くす)」と呼ばれた皆殺し作戦をおこないました。どうせ殺すのならばと、女性を強姦したり、拉致してきて慰安婦にすることが野放しにされました。つまり日本軍の駐屯地などでは強姦は取締まられ慰安所を使うことが奨励される一方で、抗日勢力の粛清などのために出かけた場合には強姦や略奪が放任されたのでした。

 

ですから慰安所が作られたから強姦がなくなったのではなく、慰安所と強姦は並存していたのが実態なのです。フィリピンや中国でしばしば見られたように強姦とともに日本軍による慰安婦狩りがおこなわれていたこともその表れです。

 

ところで本来、強姦を防ぐためには兵士の犯罪を厳しく取締まると同時に兵士の人権を保障し待遇を改善することが大切ですが、日本軍がおこなったことはそれに逆行したことでした。補給もなしに戦場やジャングルに送り込み多くの餓死者を出したり、捕虜になることを許さず無意味に「玉砕」させるなど兵士の人権を踏みにじったのでした。そうした発想しかない日本軍は女性の人権を踏みにじることを平然とおこなったのです。女性への性暴力、人権蹂躙という点では強姦も「慰安婦」にしたことも同じなのです。

 

2-10 被害女性の証言は矛盾だらけなの?

「証言の度に話が変わっている」「陸軍や他の政府機関によって強制的に働かされたという言及はない」(『THE FACTS』ワシントンポスト、2007年6月14日)など、被害者の証言を否定するような主張があります。しかし、当初の証言になかったからその事実はないと言い切れるでしょうか? また、証言が変わるから証言自体、信用できないと言えるでしょうか? ここでは被害者証言への向き合い方について考えてみます。

 

記憶とトラウマ

まず、証言全体をみて言えることですが、たしかに被害女性の証言には、「いつ」「どこで」「誰が」などが曖昧なものもあります。中国や東ティモールの被害女性をはじめ被害証言のなかには、自分の生年月日すらはっきりしないものもあります。また、連れて行かれた所が中国だとはわかっても、地名まで覚えていないケースもあります。

 

たとえば、文必琪さんの場合、汽車に乗せられて日本軍の慰安所に連れて行かれますが、新義州を経て「満州」に入ったことは覚えていても、自分が入れられた軍慰安所があった土地の名前や、その軍慰安所を使用していた部隊名を思い出すことができません。

 

しかし、慰安所の詳しい説明や、日本兵が大勢来たこと、軍人が慰安所の歩哨に立っていたこと、どのようにして連れて行かれたかなど、驚くほど詳細に記憶していることもあります。彼女が詳細に語る「自分の身に何があったのか」のなかにこそ、長い時間を経ても忘れることのできない痛みと苦痛の体験があるのです。たとえ一部分の記憶が抜けているとしても、固有名詞を記憶していないとしても、だからと言って証言全体を信憑性がないとして切り捨てることはできません。

 

記憶の問題は、長い年月が経ったことにより忘れてしまうということもありますが、それだけではありません。たとえば朝鮮女性の場合、日本の植民地支配下、とくに女性であったことも手伝い、女性の普通学校の完全不就学率は1932年の時点で91.2パーセントにまで及んでいます。学校教育を十分に受けることができなかった結果、字が読めない女性も少なくなく、文字としてではなく、耳で聞いた音の記憶に頼らざるを得なかったということもありました。被害女性の証言を聞く時、そのような状況への理解も必要です。

 

一方、記憶の断片化、記憶の断絶は、女性たちの被害の大きさでもあるのです。記憶の断片化について精神科医の桑山紀彦さんは、「一つ一つの記憶は非常に鮮明であるにもかかわらず、その相互、あるいは時間的な前後の繫がりがはっきりしないという現象である」と説明します。また、トラウマの本態については、「人間が経験する上で著しい苦痛を伴い、生きる希望を打ち砕き、大切な人間関係を崩し、二度と立ち直れないかと思うほどの出来事に遭遇してこころが傷ついたその状態をいう」としています。

 

ジュディス・L・ハーマンさんによると、これはトラウマを持つ人の外傷性の記憶の特徴です。初めて口を開いた時、被害女性はまだ重いトラウマを背負っています。つじつまが合っていないと思われるようなぶつ切りの断片的な証言がなされるのはPTSD(心的外傷後ストレス障害)の症状でもあるのす。しかし、自分の話をきちんと聞いてくれる人がいるという「安全の確保」(想起と服喪追悼、再結合と共ともに回復過程の一つ)がなされるなかで、次第に凍りついた記憶は解凍していくのです。

 

1990年代になり、女性たちが沈黙を破り自分の身に起きたことを語りはじめたのは、ハーマンさんによれば「回復過程」です。自分の体験を危害を加えずに聞いてくれる人がいるという環境の変化は、被害回復への扉を開く一つのきっかけになったと言えます。そうした女性たちの証言に対して「でっちあげだ」「お金が欲しくて噓を言っている」などとただ攻撃するのは、被害女性にさらなる暴力を加えることにほかなりません。

 

2、金学順さんの証言をどう見るか?

2. 1991.8.14 金学順さんが韓国挺対協で記者会見

1991.8.14 金学順さんが韓国挺対協で記者会見

 

しばしば金学順さんの証言について、提訴した時の訴状に書かれた連行状況とその後の証言とニュアンスがちがうとか、妓生(キーセン)だったことを隠していたなどをあげて証言を否定する人がいます。そもそも前身が妓生だった否かが「彼女」の被害を否定するものではありません。秦郁彦著『慰安婦と戦場の性』(新潮社、1999年)では、「金学順証言の異同」という表が掲載されています。このなかの「f 慰安婦にされた事情」ではABCとそれぞれの「連行」証言が書かれていますが、これを「矛盾」と言えるでしょうか。Aは「北京の食堂で日本将校にスパイと疑われ養父と別々に、そのままトラックで慰安所へ。……」、Bは「Aに同じ」、Cは「養父をおどして日本兵が慰安所へ連行、……」とあります。この場合の「異同」の「異」をあげるとしたら、「養父をおどして」の部分ですが、「スパイと疑われ」のやりとりのなかで養父が脅されたということであったとすれば、まったく相反する証言ではありません。しかも、養父とバラバラにされていた金さんが日本兵にトラックに乗せられ慰安所に連行されたのは違いないわけですから、証言のたびに内容が異なるとは言えません。証言を重ねるなかで思い出されたり、鮮明になることもあるでしょう。当初の証言になかったからといって証言を全面的に否定することはできません。

 

また、「慰安婦」にされた女性が妓生であったかどうかは関係ないのです。無理やりトラックに乗せて慰安所に連れて行ったということが、連行の問題です。仮に本人が知らないところで養父が彼女を軍人に「売った」というのであれば、日本軍が未成年の女性の人身売買に関わったことになります。そうであれば当時の刑法に違反する犯罪であり、それはそれで重大な問題です。刑法第二二四条「未成年者略取及び誘拐」には、未成年者を略取又は誘拐してはならないとしていますし、第二二五条(営利目的等略取及び誘拐)は、営利、わいせつ又は結婚の目的で、人を略取又は誘拐してはならないとしています。

 

「河野談話」も歴代総理も「証言」にみる強制性を認めてきた

「河野談話」は、「慰安婦」の徴集と慰安所における強制性を認めています。談話を発表した河野洋平さんはその理由について、16人の被害女性から話を聞いたが、「明らかに厳しい目にあった人でなければできないような状況説明が次から次へと出てくる。その状況を考えれば、この話は信憑性がある。信頼するに十分足りるというふうに、いろんな角度から見てもそう言えるということがわかってきました」と話しています。

 

「河野談話」発表以来、第一次安倍内閣を含めて歴代の内閣総理大臣は、「河野談話」を踏襲してきました。「強制」を認めた説明として政府は、「政府が調査した限りの文書のなかには、軍や官憲による慰安婦の強制募集を示すような記述は見当たりません。総合的に判断した結果、一定の強制性があるということで判断した」と、答弁してきました。いわば、歴代政府も被害者の証言を認めてきたのです。

 

責任の所在を立証するのは被害女性ではない

そもそも、被害女性に、自分が入れられた軍慰安所を誰が管理・監督していたのか、誰の命令で設置されたのか、誰の命令で自分たちはそこに連れて来られたのか、事実関係の立証を求めるのは無理な話です。彼女を直接騙したのが警官や区長、業者だったとしても、誰が集めるように指示したか、「首謀者」「命令者」については、彼女たちは知る由もないからです。

 

このように、責任の主体が被害女性の証言に出てこないからといって、その事実はないと言うことはできません。むしろ、被害女性たちの数々の証言を通して見えてくるものが何であるのかを明らかにすること(真相究明)は、被害者ではなく、日本政府の責任です。

(2014年10月24日更新)

証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集Ⅰ——南・北・在日コリア編