入門編 | Fight for Justice 日本軍「慰安婦」―忘却への抵抗・未来の責任

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入門編 | Fight for Justice 日本軍「慰安婦」―忘却への抵抗・未来の責任

 

入門編

1 日本軍「慰安婦」とは?

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ビルマで保護された20人の朝鮮人「慰安婦」

日本軍「慰安婦」とは、1932年の第一次上海事変から1945年の日本の敗戦までの期間に、日本の陸軍と海軍が戦地・占領地につくった慰安所に入れられて、日本の軍人・軍属の性の相手をさせられた女性たちのことです。

 

「慰安」というのは、本来は慰さめて心を安らかにするということで、慰安所とは心のオアシスというような意味で用いられていましたが、軍人が性交する場所という事実をかくすために、軍はこの用語を選んだのでしょう。

 

「慰安婦」にされた人たちは、日本人・朝鮮人・台湾人・中国人・フィリピン人・インドネシア人・ベトナム人・マレー人・タイ人・ビルマ人・インド人・ティモール人・チャモロ人・オランダ人・ユーラシアン(白人とアジア人の混血)などの若い女性たちです。そのうち、朝鮮人・中国人・フィリピン人・インドネシア人など日本人以外の女性の比率が圧倒的に多かったのです。

 

女性たちのほとんどは経済的に貧しい家庭の出身か、戦争のため苦境に陥った女性たちで、略取(暴行・脅迫を用いて連行すること)・誘拐(だましたり、甘言をもちいて連行すること)・人身売買により慰安所に入れられています。

 

また、日本が加入していた婦人・児童の売買禁止に関する国際条約(1910年の醜業を行はしむる為の婦女売買禁止に関する国際条約と1921年の婦人及児童の売買禁止に関する国際条約)は、満21歳未満の女性を国外に連れて行くことを、本人が同意していても禁止していますが、「慰安婦」にされた女性には、未成年の少女も多く、公文書によれば、台湾からは14歳の少女が広東省の慰安所に連行されています。

 

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中国の慰安所の前で行列する日本兵たち(村瀬守保『私の従軍中国戦線』p.107)

日本軍は、日本が占領した中国・東南アジア・太平洋地域に慰安所をつくりました。インド領のアンダマン・ニコバル諸島や、日本の委任統治領だったパラオやトラック島にもつくりました。国境に近い北朝鮮や千島列島にもありました。アメリカ軍が日本に迫ってくると、台湾や沖縄に日本軍部隊が派遣されたので、ここにもつくりました。また、本土決戦用の部隊が集結した1945年には南九州や四国、房総半島などにもつくりました。

 

1991年に韓国人の元「慰安婦」だった金学順さんが50年近い沈黙をやぶって名乗りでてから、日本軍による重大な人権侵害として、大きな問題となりました。日本政府は、「民間業者」が連れ歩いていたのであって、軍は関与していない、と答弁していました。しかし、1992年に軍の深い関与を示す公文書が発見されると、答弁を撤回し、1993年に軍の関与と重大な人権侵害であることを認める河野洋平官房長官談話を発表しました。

 

「慰安婦」という用語は、実態をかくす用語なので、近年はカッコをつけて用いられています。国際的には、「慰安婦」制度は、“Sexual Slavery”(性奴隷制度)と表記されます。

1930年代から第二次世界大戦中に、このような軍中央が承認する全軍的な制度をもっていた軍隊は、日本軍以外にはほとんどありません。ドイツ軍は、類似した制度をもっていたようですが、第一次世界大戦後のドイツは植民地を持っていなかったので、日本軍のように植民地から女性たちを集めて連れて行くということはありませんでした。

2 なぜ日本軍は「慰安婦」制度をつくった?

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慰安所設置を命ずる北支那派遣軍参謀長、岡部直三郎中将の指示(防衛省防衛研究所所蔵)

なぜ日本軍は「慰安婦」制度をつくったのでしょうか。日本軍の公文書に書かれている、日本軍が慰安所をつくる理由はつぎの4つです。

 

強姦防止のためにつくったが、失敗だった

1つは、戦地で日本軍人が住民を強かんするので、その強かんを防止するためにつくるという動機です。これは軍の施設として作る必要があるという発想になります。北支那派遣軍参謀長の岡部直三郎中将は、日本軍人の強かん事件が頻発し、中国人の怒りをかっているので、いそいで性的慰安施設をつくれ、と命令しています(資料参照)。

 

こういう話をすると、それは良かったんじゃないかという人が出てきますが、これは実際には失敗します。軍「慰安婦」制度を作ったにもかかわらず、日本軍人による戦地での強かん事件はいっこうになくならなかったのです。慰安所で性暴力を公認し、性的欲求をあおっておいて、強かん防止に役立てようということがそもそも無理だったのです。また、慰安所に入れられた女性たちは日々性暴力を受けることになります。

 

性病まんえん防止のためにつくったが、失敗だった

「星秘膏」

部隊では、性病予防の薬「星秘膏」とコンドーム「突撃一番」が配られたが、性病にかかった兵士は多かった。

2つ目は、性病まんえん防止という理由です。日本軍の将兵が戦地にある売春宿に通うと、そこは衛生状態が悪くて性病がひろまっているので、そこに通うことを禁止して、軍が完全に管理できる慰安所をつくろうという発想です。外部との接触を絶って、慰安所を軍の中に抱えこめば性病防止ができるというのが軍医たちの発想でした。しかし、これも失敗してしまいます。

 

「突撃一番」

戦地で性病に新たに感染した人数は、軍中央が把握した数によれば、1942年に1万1983人、1943年に1万2557人、1944年に1万2587人と、少しずつ増えています。後になるにつれて動員兵力は増えますので、比率としては減っているかもしれませんが、新規感染者の絶対数は増えている、ということになります。

 

もう1つの問題は、戦場で性病に感染するというのは非常に不名誉なことなので、みんな隠すことです。隠してひそかに自分で治療しようとしますのでその実数はなかなか把握できない。実際はこれよりはるかに多かったと思いますが、軍「慰安婦」制度を作って性病を防止しようとしても失敗してしまうのです。軍人の中にすでに性病に感染している人が非常にたくさんいますので、それが慰安所を介して拡大していくことになります。

 

「慰安」の提供:人権無視の措置。

強かん防止にも、性病感染防止にも役立たない慰安所がなぜ増えていくのでしょうか。戦場で劣悪な状況に置かれている兵士たちの不満を解消するために「慰安」の提供が必要だというのが第3の、そして最大の動機だと思います。戦前の日本の男性文化の中では、「慰安」として最初に思いつくのは酒、それから買春でした。女を提供すればいいという軍による安易な、人権無視の発想の中でこの制度がつくられていくのです。

 

スパイ防止:女性はモノ扱い

第4の理由として「防諜」というのがあります。スパイ防止ということです。これは、日本の軍人が戦地・占領地の民間の売春宿に通うと、その女性たちと深い関係になる可能性がある。もしそこにスパイが入っていると軍の機密が筒抜けになる。そこで、戦地・占領地にある民間の売春宿に通うことを禁止して、その代わりにスパイが入り込まないような、完全に軍の監督・統制下におかれた慰安所をつくろうとするのです。これが、日本軍が「慰安婦」制度をつくり、軍の中に抱えこんでいく、もうひとつの理由になっていました。

 

いずれにしても、慰安所に入れられる女性たちは軍のための単なるモノとしか考えられていませんでした。また、日本軍の兵士たちも、性的欲望をあおられ、愛のないセックスをさせられるという意味で、人権を無視されていたことになるのではないでしょうか。

3 女性たちはどのようにして集められた?

日本・朝鮮・台湾から

戦地・占領地にいる日本軍部隊が慰安所の設置を決定すると、日本・朝鮮・台湾など「日本帝国」領土で集める時には、軍が業者を選定するか、内務省や総督府に業者の選定を依頼し、その業者に集めさせます。日本内地からは、警察が出国の制限をしていましたので、売春の前歴がある、21歳以上の女性がほとんどでした。しかし、日本から送り出される女性の殆どは家庭が貧しいため、遊郭などに入れられていた人身売買などの被害者だったのです。

 

業者は女衒とよばれる人身取引業者から選ばれることが多く、とくに朝鮮・台湾では、女性たちは刑法に違反する略取・誘拐や人身売買により集められ、国外に移送されることになります。また、売春経験のない女性や、婦人・児童の売買禁止に関する国際条約が禁止している満21歳未満の女性が国外に移送されることになりました。

 

日本・台湾で集められた女性たちは軍用船で戦地に送られました。朝鮮で集められた女性は、汽車か軍用船で戦地に送られました。そこから軍のトラックなどで目的地まで移送することになります。

 

中国・東南アジア・太平洋地域で集められた女性たちは、慰安所が現地にある場合はそのまま入れられます。海外に送られる場合は軍用船で移送されました。

 

中国・東南アジア・太平洋地域から

中国・東南アジア・太平洋地域の戦地・占領地で地元の女性を集める場合は、地元の「売春婦」を慰安所に入れるだけでは足りずに、軍が売春経験のない女性を集めました。その方法は、市長・村長など地元の有力者に命じて集めさせる場合や、軍が直接集める場合がありました。

 

『独山二 もう一つの戦争』表紙

溝部一人編『独山二』(私家版、1983年)

第1の場合は、その地域の差別されている家庭か、貧しい家庭の女性が、地域の治安・安全のためだからと説得され、半強制の形で、「慰安婦」にさせられることになります。半強制のケースを示す資料としては、たとえば独立山砲兵第二連隊第二大隊の軍医の日記があります。1940年8月、中国湖北省董市近郊の村で、地元の中国人女性を軍「慰安婦」にするため、性病検査をした日記です。

さて、局部の内診となると、ますます恥ずかしがって、なかなかクーツ褲子〔ズボン〕をぬがない。通訳と〔治安〕維持会長が怒鳴りつけてやっとぬがせる。寝台に仰臥位(ぎょうがい)て触診すると、夢中になって手を掻く。見ると泣いている。部屋を出てからもしばらく泣いていたそうである。

次の姑娘(クーニャン)も同様でこっちも泣きたいくらいである。みんなもこんな恥ずかしいことは初めての体験であろうし、なにしろ目的が目的なのだから、屈辱感を覚えるのは当然のことであろう。保長や維持会長たちから、村の治安のためと懇々と説得され、泣く泣くきたのであろうか?

なかには、お金を儲けることができると言われ、応募したものもいるかも知れないが、戦に敗れると惨めなものである。検診している自分も楽しくてやっているのではない。こういう仕事は自分には向かないし、人間性を蹂躙(じゅうりん)しているという意識が、念頭から離れない。(溝部一人編『独山二』私家版・山口県)

 

日本軍の要求なので、断りきれず、村の有力者の圧力で、半強制的に差し出されたという事情がうかがわれます。

 

第2の場合は、部隊が布・食料・塩などを与えて女性を集めました。また、部隊が暴行・脅迫を用いて直接連行することもすくなくありませんでした。これについては、Q&A「暴行・脅迫による連行はなかった?」をみてください。

 

4 日本軍は「慰安婦」制度をどのように運営した?

1-4 常州駐屯間内務規程

独立攻城重砲兵第二大隊「常州駐屯間内務規定」1938年3月16日。

慰安所は戦地・占領地につくられましたが、軍直営の慰安所、軍専用の慰安所、民間の売春宿を軍が指定して一時使用する軍利用の慰安所の3種類がありました。このうち、軍直営と軍専用の慰安所についてみてみましょう。

 

日本軍が自らつくった

現地の日本軍部隊が慰安所をつくることを決定すると、建物は現地部隊が接収しました。部屋が多い建物が必要なので、学校やお寺や教会関係の施設が慰安所にされたこともあります。建物の内部の改装も現地部隊が行いました。

 

慰安所の規定は現地部隊が作っています。軍人・軍属専用なので、民間人は利用できません。おおむね、朝・昼は兵士が利用し、夕方は下士官、夜は将校が利用することとされ、将校と下士官・兵士とが慰安所で顔をあわせることがないようにしていました。将校専用の慰安所もありました。

 

利用料金も現地部隊が決めています。独立攻城重砲兵第二大隊が中国につくった慰安所では、下士官・兵が利用する場合は、中国人女性は1円、朝鮮人女性は1円50銭、日本人女性は2円で、将校はその倍額と決めています(資料参照)。各部隊に利用日を割り当てることも現地部隊が決めています。
慰安所は軍の施設

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漢口の積慶里慰安所は、日本軍の武漢攻略作戦後の1938年11月に開設され、日本の中国派遣軍随一の「繁栄」だったという。これに関して、軍医・長沢健一(左)、慰安係長・山田清吉(右)の詳細な証言がある。山田によれば、積慶里には20軒の慰安所があり、日本人・朝鮮人の「慰安婦」計280名いたという。日本軍は慰安所の開設・管理・統制(性病検査含む)の主体であった。

 

軍専用の慰安所は業者に運営させるのですが、現地部隊が監督・統制しています。業者や「慰安婦」は軍属の扱い(軍属待遇)でしたが、現地部隊は業者に「慰安婦」の取締りを命じ、毎日の営業報告書を提出させています。

 

軍医による定期的な性病検査も行われていました。「慰安婦」の食料・衣服・日用品などは現地部隊から提供されています。ただで提供される場合もあります。インドネシアのケンダリーにいた海軍部隊は、食料・衣服・寝具・食器類・水道料や使用人の給料などまで支給していました(資料参照)。また、軍はコンドームや性病予防薬を提供しています。

 

このように、日本軍は慰安所を軍の施設としてかかえこんでいました。「慰安婦」制度をつくり、運営した主役は日本軍だったのです。業者が経営する場合も、軍から監督・統制されていますので、軍の手足として使われたことになります。

画像1長沙慰安所

中国・長沙慰安所のスケッチ(細川忠矩『戦場道中記』1992年より)

画像2 長沙慰安所見取り図

 

 

軍人・軍属は軍と特別な契約関係にある人たちですので、今風にいえば公務員ということになるでしょう。国家が公務員専用の性的施設を作るというのは、極めて異常なことではないでしょうか。かりに文科省が小・中学校の先生のために専用の慰安所を作れば一大スキャンダルです。そういうことが平然と行われていたというところに、この問題の本質があるのです。

 

では、日本軍はどういう理由で慰安所を「合法化」したのでしょうか。陸軍についてみると、慰安所は軍の後方施設、兵站付属施設としてつくられました。陸軍には「野戦酒保」という、軍人・軍属のために飲食物とか日用品を提供する売店をつくることができるという規定がありましたが、それを拡大して「必要な慰安施設」をつくることができるようにしたのです。業者が勝手につくったものではないのです。

1-4の資料 第二軍司令部

5 軍慰安所で強制はなかった?

1-5 常州駐屯間内務規定

独立攻城重砲兵第二大隊「常州駐屯間内務規定」1938年3月16日。

慰安所での強制

日本軍「慰安婦」問題で最大の問題は、慰安所で強制があったかどうかです。女性たちがどんな形で連れて来られたにしても、たとえば豪華客船に乗せられて、陸上に上がっては高級車に乗せられて連れてこられたとしても、また、自由意思でやって来た場合でも、軍の施設である慰安所で軍人・軍属の性の相手を強制されれば、軍の責任は免れません。

 

この点について、1993年の河野洋平内閣官房長官談話は「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった」と明確に認めています。この見解は、ごくまともなものです。なぜなら、被害にあった多くの女性たちの証言があるからです。また実際に慰安所に通った、かなりの軍人・軍属たちが慰安所の凄まじい状況を見てたじろいでいるように、被害者の証言と一致するからです。

 

軍「慰安婦」制度は性奴隷制度だった

また、「慰安婦」制度が性奴隷制度だったとすれば、そのような制度のもとで軍人・軍属の性の相手をさせられる女性たちは、自由意思でそうしているとはいえません。

 

次の表は、「慰安婦」制度と、日本国内にあった公娼制度とを比較したものです。公娼制度も「慰安婦」制度も、どちらも性奴隷制度ですが、形態上の相違も少しあります。

 

  居住の自由 外出の自由 自由廃業 拒否する自由
公娼制度 なかった。 なかった。
1933年からは認めるよう内務省が指導。
法律上の規定はあった。しかし、実現することは極めて困難だった。 建前は自由意志ということになっていたが、拒否することは困難だった。
「慰安婦」制度 なかった。 なかった。 なかった。 拒否は殆ど不可能。

 

 

公娼制度と「慰安婦」制度では、ともに女性たちに居住の自由がありませんでした。管理・統制された一角にある住居に住まなければならないということで共通しています。「慰安婦」は決められた狭い部屋で起居し、生活しなければなりませんでした。

 

公娼制度では、女性たちは「籠の鳥」といわれ、外出の自由が認められていませんでした。しかし、1933年から内務省は、許可制であれば外出の自由はないということになるとして、許可制をやめ、外出の自由を認めるよう指導をしています。なぜ、そういう指導をせざるをえないかというと、公娼制度は性奴隷制度ではないかとの批判を外国から受けるのですが、その理由の1つが許可制のため自由に外出できない、というものでした。その批判をかわすための指導だったのです。

これに対して、「慰安婦」制度では日本軍は外出の自由をそもそも認めていません。軍がつくった軍慰安所規定を見ると、外出の自由を認めない規定がいくつかあります。中国の常州に駐屯していた独立攻城重砲兵第二大隊が1938年に作った「常州駐屯間内務規定」では、「営業者ハ特ニ許シタル場所以外ニ外出スルヲ禁ス」といっています(「営業者」とは「慰安婦」のこと)。ある一定の許可した場所以外に外出を禁ずるということは外出の自由がなかったことになります。

 

比島軍政監部ビサヤ支部イロイロ出張所(パナイ島イロイロ市)の規定(1942年)でも、「慰安婦外出ヲ厳重取締」、「イロイロ出張所長ノ許可ナクシテ慰安婦ノ連出ハ堅ク禁ズ」という条項があります。許可制なので外出の自由はなかったということになります。

 

公娼制度も性奴隷制だった

また、公娼制度では、それが性奴隷制度ではないというために、内務省は自由廃業の規定を作っていました。自由廃業とは、遊郭の中で売春をさせられている女性が辞めようと思えばすぐに辞められるという権利を認めるということです。

 

ただし、これは実際には機能しません。なぜかというと、自由廃業の規定があることを遊郭に入れられている女性たちはそもそも知らなかったのです。仮に知ったとしても、業者が妨害して警察に届け出られませんでした。運良く警察に届け出たとしても業者は必ず裁判を起こし、借金を返せといいます。裁判になると、売春で借金を返すという契約は公序良俗に違反しているので無効だけれども、借りた借金は返さなければいけないという判決がほぼ必ず出ます。そうすると借金を返せない女性は、自由廃業の規定があっても、そのまま遊郭に拘束されてしまうのです。

 

ですから公娼制度は、事実上の性奴隷制度だといわざるをえません。これに対して「慰安婦」制度はどうであったかというと、自由廃業の規定はそもそもないのです。最初からから無視されています。

 

拒否する自由はあったのでしょうか。公娼制度では建前では自由意思となっていますが、借金を返さなければいけないので、拒否することは困難だったでしょう。「慰安婦」制度の下では拒否はほとんど不可能でした。拒否すれば業者か軍人から殴られることになります。

 

このように公娼制度も「慰安婦」制度も共に性奴隷制度でした。違いがあるとすれば、公娼制度は、市民法下の制度なので一応性奴隷制度ではないような外見を伴っていますが、実質は性奴隷制度だったということです。「慰安婦」制度は軍法下の性奴隷制、文字通りむき出しの性奴隷制度であったということになります。そのような制度のもとで軍人の性の相手をさせられる女性たちは強制的にさせられたのだ、といわざるをえません。

1-5 慰安所規定(亜細亜会館、第一慰安所)-1

比島軍政監部ビサヤ支部イロイロ出張所「慰安所規程(亜細亜会館、第一慰安所)」(1942年11月22日)。

6 戦後はどうした?

書映2 重々 戦後の処遇は、女性たちの属する民族や連れて行かれた場所によって、違いがありました。中国人やフィリピン人など占領地の女性は主に現地で「慰安婦」など性被害にあいましたが、日本人や、朝鮮・台湾の植民地出身の女性たちは、故国から遠方の占領地や戦場に移送され、「慰安婦」にされたという違いがあるからです。彼女たちは日本軍によって侵略・占領された中国やアジア・太平洋諸島に至る広範囲な地域や、危険な前線にまで連れて行かれたのです。なお、中国人やインドネシア人女性の中にも海外に移送された人がいます。

 

現地で敗戦を迎えた日本人「慰安婦」は捕虜収容所に入れられた後に帰国した場合もありますが、日本人居留者らとともに引き揚げ船などにより帰国しました(長沢健一『漢口慰安所』など)。しかし、彼女たちの戦後は、苦難にみちたものでした(→証言編:日本人慰安婦へ)。

 

中国の騰越の朝鮮人「慰安婦」の死体(1944)

中国の騰越(ビルマ国境地帯)の朝鮮人「慰安婦」の遺体(1944年9月)。

植民地出身女性はどうでしょうか。朝鮮人女性は、日本軍によって敗戦を知らされず、現地に置き去りにされました。①戦場に遺棄され、死亡したケース、②自力で帰国したケース、③望まないまま現地に残留したケースの3つがあります。

 

まず①戦場で遺棄され、死亡したケースがあります。ある日、日本軍がいなくなったため敵陣に残され(放置)、地理や言葉もわからず、通用する金銭もなく、危険な状態のまま帰国の術を失い、亡くなった女性たちが多かったと思われます。彼女たちはどうなったのでしょうか。写真は、朝鮮人「慰安婦」の遺体ですが、「壕は女性の遺体で埋まっていた。ほとんどは朝鮮人だった」と記録にあります(1944年、中国の騰越=ビルマ国境地帯)。また1944年暮から1945年春にかけてのフィリピン戦線では、戦況が悪くなり、各部隊がそれまで連れて歩いた朝鮮人「慰安婦」を「ボロ屑を棄てるがごとく」棄てたといわれています(千田夏光『従軍慰安婦〈正編〉』)。こうしたことが、敗戦後もあちこちで起こったと思われます。

 

②の自力帰国ケースでは、黄錦周さんは中国から、姜徳景さん(日本軍人の子を妊娠中)は日本から自力で帰国しました。朴頭理さんは台湾の慰安所で使い走りをした朝鮮人男性と一緒に帰国しました。朴永心さんは昆明捕虜収容所に収容され、重慶から光復軍とともに朝鮮に帰国しました(→証言編)。中国に連れて行かれた崔甲順さんは、豆腐売りをしながら、歩いて韓国に帰国しましたが、4年間かかりました。帰国がいかに危険で困難であったか、奇跡的なことであったかがわかります。しかし彼女たちの故国での後半生も、厳しいものでした(→入門編7)。

 

③現地に置き去りにされたケースも少なくありませんでした。たとえば、中国の内陸部にある武漢の例をみてみましょう。武漢には1938年11月に開設された中国最大の日本軍慰安施設が積慶里にあり、約20軒の慰安所に日本人女性130人、朝鮮人150人女性が「慰安婦」にされていたといいます(山田清吉『武漢兵站』)。長沢健一軍医大尉によれば、日本人「慰安婦」たちは、敗戦の翌春、府県単位に組み込まれて引き揚げ船で帰国しました(長沢『漢口慰安所』)。同氏は、朝鮮人「慰安婦」は光復軍とともに故国に引き揚げた模様といっていますが、必ずしもそうではありませんでした。

 

書映1 中国連行 武漢で「慰安婦」にされた宋神道さんは日本人元軍曹に誘われて日本に渡りましたが、軍曹に日本で棄てられました。河床淑さんなどのように、「恥意識」から迷っているうちに帰国する術を失い、意志に反して武漢周辺に留まった女性が多数いました(その数は、河さんによれば1950年代後半に32人、1990年代には9人でした〔『中国に連行された朝鮮人「慰安婦」たち』〕)。

 

また、中国東北地方(いわゆる満洲)に連行された朴玉善さん、李玉善さん、金順玉さん、シンガポールに連行されタイに残留した盧寿福さん、沖縄・渡嘉敷島に連行された裵奉奇さんなどをはじめ、かなりの数の朝鮮人女性が現地に留まらざるをえませんでした(『置き去りにされた朝鮮人「慰安婦」』)。彼女たちが、韓国政府や支援団体などの助力により帰国を果たしたのは、半世紀を過ぎた1990年代、または2000年代に入ってからです。台湾人女性もまた同様でした。

 

私たちが証言を聞けるのは、苦難のなかで運よく帰国できたり、現地に残留して生き延びたりした、まさに「サバイバー(生還者)」と呼ぶにふさわしい、被害女性がいたからです。

 

このように、日本軍は、日本人「慰安婦」を帰国させましたが、自ら立案・実行した「慰安婦」制度により植民地から戦地・占領地に連れて行った朝鮮人や台湾人の元「慰安婦」を帰国させる手だてをとりませんでした。日本軍・日本政府の戦後責任・植民地責任の放棄は、戦争直後の置き去りからはじまります。
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戦後補償からの置き去り

1990年代に入って、韓国などアジアの被害者が次々と証言をするまで、日本政府は半世紀以上も放置・黙殺してきました。日本政府が軍関与を公式に認めたのは、1991年8月14日に、金学順さんが韓国ではじめて実名で顔を出して証言をはじめ、1992年1月に軍の深い関与を示す資料が防衛庁防衛研究所図書館に存在したことが報道されてからです。しかしその後も日本政府は、帰国できなかった元「慰安婦」サバイバー(生還者)への帰国措置をとりませんでした。

 

戦後補償に関してはどうでしょうか。日本政府の戦後補償政策では日本人男性元軍人・軍属に対して「国家補償の精神に基づき」個人補償(軍人恩給)が1952年から実行されました。これに対して、「慰安婦」には、日本政府による個人補償はなされていません。1995年に日本政府は「女性のためのアジア平和国民基金」(国民基金、またはアジア女性基金)を創設しましたが、これは民間からの募金による「償い金」であり、国家補償ではありません。ここにも日本人軍人・軍属との著しい落差があります。戦後補償からも“置き去り”にしたのです。

 

<引用・参考文献/映像>

・千田夏光『従軍慰安婦〈正編〉』三一書房、1978年

・梁鉉娥「植民地後に続く韓国人日本軍「慰安婦」被害」アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」編『証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集Ⅱ』明石書店、2010年

・山田清吉『武漢兵站』図書出版社、1978年

・長沢健一『漢口慰安所』図書出版社、1983年

・韓国挺身隊問題対策協議会・韓国挺身隊研究会編、山口明子訳『中国に連行された朝鮮人「慰安婦」たち』明石書店、1996年

アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)カタログ『置き去りにされた朝鮮人「慰安婦」』2006年

・安世鴻(著・写真)『重重—中国に残された朝鮮人日本軍「慰安婦」の物語』大月書店、2013年

・ピョン・ヨンジュ監督『ナヌムの家』1995年

7 女性たちは戦後どのように生きてきた?

書映1韓国人元「慰安婦」の証言を数多く聞き取った研究者は、「『慰安婦』女性の被害は慰安所で終わるのではなく、そこからはじまる」(梁鉉娥)と指摘しています。これは中国人女性・フィリピン人女性・オランダ人女性など、アジア各国・地域の元「慰安婦」や性暴力被害者にも当てはまります。

 

女性たちの戦後の処遇(→入門編6)は民族の違いがありますが、彼女たちの戦後の人生は、民族の違いを越えて、よく似ています。現在でも性暴力被害者がその被害を訴えることは大変ですが、現在とは比べものにならないほど女性に「貞操」や「純潔」が求められる時代に生きてきた「慰安婦」被害女性たちは、戦後に性被害を訴えることができないまま、苦難にみちた歳月を送ってきたからです。ただしそのあり方は、まったく同じではありません。「トラウマ」「PTSD」を通して、彼女たちの戦後の人生をみてみましょう。

 

性暴力被害者に高いPTSD発症率

「トラウマ」「PTSD」という言葉を聞いたことがあると思います。トラウマとは命の危険にさらされたり、性的な侵害をうけたりといった「衝撃的な出来事にあったときに生じる心の傷(心的外傷)」のことです。あまりの衝撃に「言葉を失う」経験なので、「言葉になりにくい」「言えなくなる」というのがトラウマなのです。そのトラウマ反応の1つが 「PTSD」(心的外傷後ストレス障害、Post traumatic stress disorder)です。PTSD症状には、極度の緊張や警戒が続いたり、フラッシュバックや悪夢などでとつぜん記憶がよみがえったり、トラウマ体験を思い起こさせるものを避けたり、感情反応がなくなったり、自責の念にとらわれたりする、などがあります。

 

トラウマ体験にはジェンダー(社会的につくられた性別)の違いがあり、男性は災害・事故・暴力・戦闘、武器による脅迫などでPTSDが発症しますが、女性に圧倒的に多いのは性暴力被害です。しかも性暴力被害は、ほかのトラウマ体験よりもPTSDの発生率が高いといわれています(宮地尚子による)。「慰安婦」被害や戦時性暴力被害は、精神科医により「PTSD」あるいは「複雑性PTSD」と診断されています。ここでは、朝鮮人元「慰安婦」、中国人元「慰安婦」・性暴力被害者のケースをみていきましょう。

 

 PTSDと家族・社会からの疎外:朝鮮人女性の場合

韓国の被害者は慢性のPTSDが多いと診断されていますが、その根拠は次のようなものでした(梁鉉娥による。2000年韓国仁川サラン病院での被害者14人中11人)。

 

①「慰安婦」時代に自分や仲間が銃剣をもった軍人に殴られたりして死の脅威を感じ、無力感と恐怖を経験した。

②その後の人生で、男性、とくに軍人を見ると恐怖を感じたり避けたりした。

③当時の経験を考えまいと努力し、それらを思い起こさせるため、男性との接触を避け恋愛や結婚をしなかったりした。

④よく眠れない日が多い。

⑤これらの症状が数十年間反復し持続し、自ら命を絶ちたいと思うことが多い。

 

韓国挺身隊問題対策協議会が「慰安婦」申告被害者 192人を調査した結果によれば、被害者のほとんどが対人恐怖症、精神不安、鬱火(怒りを押さえすぎて起こる病気)、羞恥心、罪悪感、怒りと恨み、自己卑下、諦め、うつ病、孤独感など、深刻な精神的障害をもっていました。

 

朴永心さんの首筋

抵抗したために軍刀できられた朴永心さんの首筋の傷跡。

後遺症は、精神だけでなく身体にも及びました。「慰安婦」時代に銃剣をもった軍人や業者による日常的な暴力や虐待によって、聴覚や視覚を失ったり、刀傷や傷跡、入れ墨がのこったりしました。

 

また長期にわたって繰り返された強かん経験は、女性の生殖器に治癒できないほどの傷を残しました。慰安所で性病(梅毒など)に感染した場合、戦後も治癒せず、性器や子宮異常の後遺症をわずらいました。コンドームをつけたがらない軍人がいたため、望まない妊娠をし、無理な中絶をしたりしました(出産や死産の例も少なくありませんでした)。不妊になった女性、結婚を望まない女性も多く、戦後は「結婚が当たり前」「子どもを産むのが女の務め」とされた家父長的な社会で、女性として生きる上で苦しみを与えられました。性病が次世代に引き継がれ、子どもの精神や肉体に影響が出る場合もありました。

 

社会的なレベルでも後遺症は残りました。戦後もつづく、女性に「貞操」「純潔」を求める家父長的な社会のなかで、これを内面化した女性たちは家族やコミュニティーに過去を知られまいと沈黙しました。自分を責めて、故郷に帰ることができなかったり、結婚が難しかったり(拒否したり)、男性と結婚・同棲しても不妊だったり、元「慰安婦」という噂で追い出されたり、貧困に陥ったりして、不安定な生活を送りました。自殺をはかった人もいました。日本政府が不法行為を認め償わなかったことが、これらを悪化させました。

 

PTSDと「針のむしろ」の孤独:中国人被害者たち

中国人など占領地の被害者はどうでしょうかたとえば、中国山西省の被害女性たちは、日本人や植民地出身者と違って、これまで暮らしてきた地元で被害を受けました。そのため、家族・身内や身近な村人が被害者の性被害を知っていて、「針のむしろ」にすわる状態(つらい場所や境遇)におかれ、自分の被害を公に訴えることができませんでした。

 


書映2
万愛花さんは、日本軍に拉致され、繰り返し強かんされ、拷問により骨折したため身長が縮まり、右耳も聞こえなくなりましたが、戦後は知り合いの目を避けるためほかの地域に移りました。被害事実を知った上で結婚し、夫婦仲がよかった場合でも、夫まで迫害をうけ、さらに日本兵から受けた被害の後遺症である婦人病が悪化して自殺した女性もいます。

 

6人の中国人被害者を診断したある精神科医は、被害女性は1つ1つの被害の記憶はありありとよみがえる(外傷性記憶)のに、その前後のつながりがはっきりしないというPTSDに特有な症状(「記憶の断片化」)を示したと診断しています。また、被害当時、年齢が10代だった女性もおり、児童虐待の側面が強く、「戦後50数年の月日を経ていてもPTSDは存在する」こと、「不安」と「抑うつ」(落ち込み)をもっていることを明らかにしています(桑山紀彦による)。

 

このように、日本軍による「慰安婦」制度や、組織的な強かんからはじまった性被害や、戦後につづく精神的・肉体的な後遺症や、社会的な烙印などのために、自分の過去や被害を訴えることができないまま、1990年代にはいって「慰安婦」問題を解決する運動(→入門編9)がはじまるまで、孤独と沈黙のうちに長い歳月を過ごさざるをえませんでした。

 

しかしながら、被害者の戦後の人生を検討した梁鉉娥は、「慰安婦」被害女性を「かわいそうで無力な被害者」とみるのではなく、証言をすること自体が大変な勇気を要すること、証言が自らの治癒につながることに注意を促しています。そのうえで、「慰安婦」被害を、精神的・肉体的・社会的なレベルにわたる「複合的なもの(complexity)」、「慰安婦」問題についての正義が樹立されないために苦痛がつづく「持続的なもの(continuity)」、被害への無関心・無視・わい曲など現在の社会との関係のなかで苦痛が再生産される「現在的なもの(contemporarily)」と分析しました。

 

被害者が名誉を回復するために重要なことは、まず私たちが「自分や姉妹・恋人・友人が被害にあったら(被害者だったら)」などの想像力をもって、彼女たちの被害や苦痛に対して関心をもち、共感することではないでしょうか。

 

【参考文献】

・アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」編『証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集Ⅰ―南・北・在日コリア編 上』明石書店、2006年

・同『証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集Ⅱ―南・北・在日コリア編 下』明石書店、2010年

・梁鉉娥「植民地後に続く韓国人日本軍「慰安婦」被害」、同上『証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集Ⅱ―南・北・在日コリア編 下』2010年

・韓国挺身隊問題対策協議会『日本軍「慰安婦」証言統計資料集(ハングル)』2011年

・石田米子・内田知行編『黄土の村の性暴力-大娘たちの戦争は終わらない』創土社、2004年

・アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)『ある日、日本軍がやってきたー中国・戦場での強かんと慰安所』(wamカタログ6)、2008年

・桑山紀彦「中国人元『慰安婦』の心的外傷とPTSD」『季刊 戦争責任研究』19号、1998年

・ジュディス L. ハーマン(中井 久夫訳)『心的外傷と回復』みすず書房、 増補版、1999年

・宮地尚子『トラウマ』岩波新書、2013年

 

8 どういう問題がある? 重大な人権侵害、人道に対する罪

1-8 画像 日本軍「慰安婦」制度は、日本政府自ら「当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題」(1993年「河野談話」)であると認めているように、女性に対する重大な人権侵害です。さらに国際社会は、「慰安婦」制度という名の性奴隷制が「人道に対する罪」であるという判断を下しています。このことを見ていきましょう。

 

人道に対する罪と性暴力

「人道に対する罪」は19世紀に起源をもち、ユダヤ人に対するナチ犯罪を裁いたニュルンベルグ裁判、旧日本軍・政府首脳を裁いた東京裁判をつうじて、国際法として確立されてきました。「人道に対する罪」とは、 “広範囲で組織的”な攻撃の一部として、国家または組織の政策として、文民に対する殺戮、殲滅、政治的・人種的・宗教的な理由による迫害、奴隷化、追放その他の非人道的行為をさす戦争犯罪概念です。戦時だけでなく平時でも適用されます。

 

しかし戦争・武力紛争下の強かんや性奴隷化は、東京裁判・BC級裁判などで戦争犯罪として十分に処罰されてきませんでした。しかし1990年代に旧ユーゴスラビアでおこった集団的で組織的な強かん(民族浄化の一環)が、旧ユーゴスラビア国際刑事法廷で歴史上はじめて「人道に対する罪」として独立して裁かれ、処罰の対象になりました。

 

1-8 書映1マクなぜ「慰安婦」制度は「人道に対する罪」なのか。

 日本軍「慰安婦」制度を国際法で詳細に検討した国連人権小委員会のマクドゥーガル報告(1998年・2000年)は、犯罪が大規模であり、慰安所の設置・監督・運営に日本軍が関与したことから、日本軍将兵に「人道に対する罪」の責任を問うことができるし、戦後の日本政府も損害賠償の義務を負うと明言しました。この報告書は、次にのべる女性国際戦犯法廷、そして2007年に採決された欧州議会「慰安婦」決議(加盟27カ国)などに、大きな影響を与えました。

 

2000年に東京で開かれた「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」では、旧ユーゴスラビア国際刑事法廷で所長や顧問をつとめた国際法の名高い専門家が加わり、「慰安婦」制度に関する膨大な公文書など文書類、被害者や加害兵士の証言などに基づき、犯罪が行われた当時の国際法によって裁きました。この最終判決文(2001年12月オランダ・ハーグ)では「慰安婦」制度に対するくわしい事実認定と法的分析を行い、強かんと「慰安婦」制度を「人道に対する罪」とする判決を下しました。

 

では、どのような意味で「人道に対する罪」であるのか、見ていきましょう。

 

1-8-2 画像判事団

女性国際戦犯法廷の判事団。

最終判決文は、まず、日本政府の最高レベルの認可に基づき日本軍は将兵が利用するために性奴隷施設(=慰安所)を設立・管理・運営したこと、アジア太平洋地域の少女と女性たちが拉致、強制、あるいは欺まん的な手段で連行され、強制的に性奴隷制に組み込まれたこと、一度奴隷化されると継続的に強かんされ、監禁状態におかれた、と「事実の認定」をしました。

 

これは「人道に対する罪」に当てはまるのでしょうか。1937年から1945年までの行為が「人道に対する罪」を構成するためには、その行為が①戦前または戦時中に、②一般住民に対する広範囲または組織的な攻撃の一環として、③戦争犯罪または平和に対する罪に関連して行われたものでなければなりません。「慰安婦」への強かんと性奴隷制は、「事実の認定」が示すとおり“広範囲で組織的”であり、その条件をみたしています。

 

戦地における「強かん」は、第二次世界大戦当時でも、1907年のハーグ陸戦条約で禁止されており、その違反行為は訴追されるべき戦争犯罪でした。さらに「制度化された強かん、すなわち性奴隷制」に関わる法としては、当時、①1926年の奴隷条約による奴隷制の禁止は1937年までに慣習国際法化していた、②1907年のハーグ陸戦条約(日本も批准)では占領地住民の奴隷化は禁止されていた、③1930年の強制労働条約(日本も批准)では強制労働は禁止されていた、④婦人・児童の人身売買禁止諸条約があり、日本も1904年・1910年・1921年の同条約を批准していた、⑤強制売春は慣習法で禁止されており、戦後のオランダ軍事法廷(BC級戦犯裁判)では日本人被告人が有罪とされていた、などがありました。

 

「人道に対する罪」としての強かんと「慰安婦」制度

そのうえで最終判決文は「『性奴隷制』の罪は奴隷化及び強制労働の一形態であり、『性奴隷制』の用語は1937~1945年には使用されていなかったとしても、当時の国際法上の犯罪であったと認定する」と述べています。

結論として最終判決文は、「日本軍と政府当局は第二次大戦中に、『慰安婦』制度の一環として日本軍への性的隷属を強要された数万人の女性と少女に対して、人道に対する罪としての強かんと性奴隷制を実行した」と明確に認定しました。

 

このように、「人道に対する罪」を構成するのは“広範囲で組織的”に行われた殺人、殲滅、奴隷化、強制移送その他の非人道的行為ですが、その意味で「慰安婦」制度は「人道に対する罪」としての強かんと性奴隷制なのであり、日本軍・政府によって行われた女性に対する重大な人権侵害というべきでしょう。
1-8 書映2法廷

<参考文献>

・ゲイ・マクドゥーガル著・VAWW-NET ジャパン訳『戦時・性暴力をどう裁くか―国連マクドゥーガル報告全訳〈増補新装2000年版〉』凱風社、2000年

・VAWW-NET ジャパン編『女性国際戦犯法廷の全記録Ⅱ—日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷Vol.6』緑風出版、2002年

9 解決のために、どうすればいいの?

書映2 バッシング

「慰安婦」問題は、どう解決したらいいのでしょうか。そのために、なぜ「慰安婦」問題が第二次世界大戦後から半世紀もたった1990年代に登場したのか、日本政府の対応はどうだったのかも含めて、みていきましょう。

 

1990年代に登場した「慰安婦」問題

元「慰安婦」や性暴力をうけた女性たちは、日本軍・政府が放置(→入門編6)したこと、本人たちが過去のトラウマ体験によるPTSD(→入門編7)に苦しみ、性被害を訴えることができず、沈黙をつづけました。また日本軍の侵略をうけたアジア諸国・地域には、戦後の冷戦体制のもとで強権的な政権が長くつづき、民衆が日本軍による戦争被害を訴えること自体ができませんでした。

一方、日本では、1970年代から千田夏光『従軍慰安婦』(73年)など一連の著作や、沖縄在住の被害者・裵奉奇(ペ・ポンギ)さんを扱ったドキュメンタリー映画(『沖縄のハルモニ』)、「アジアの女たちの会」の会報『アジアと女性解放』などを通じて、「慰安婦」の存在は一部に知られていましたが、解決すべき運動の課題とはみなされませんでした。

 

しかし1990年代に転機が訪れました。1980年代に民主化運動を担ってきた韓国の女性団体は、日本政府が「(「慰安婦」は)民間業者が勝手につれ歩いた」(1990年6月)などと「慰安婦」問題への軍の関与を否定したことに抗議するなかで、解決を求めて1990年11月に韓国挺身隊問題対策協議会を結成したのです。運動体の呼びかけに応えて、1991年8月に韓国ではじめて実名で証言をはじめたのが金学順さんでした。金さんは同年12月に来日し、日本政府を相手取って補償を求めて東京地裁に提訴しました(「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件」)。これが、「慰安婦」問題が日本のなかで社会問題化、さらに国際問題化される契機となりました。その後、韓国(在日韓国人含む)、フィリピン、台湾、北朝鮮、中国、インドネシア、オランダ、マレーシア、東ティモールなどの女性たちが現われ、証言をはじめました。日本や各国には、解決を求める運動や支援団体が生まれました。

 

書映1わかった「慰安婦」問題に対する日本政府の対応

一方、1992年1月に日本史研究者の吉見義明教授により軍関与を立証する公文書が防衛庁防衛図書館から発見されたという報道がされると、最初は軍の関与を否定していた日本政府は、一転して関与を認めました。その後、日本政府は2回の調査をして、1993年8月に「河野談話」を公表し、旧日本軍の関与と強制性を認め、「お詫びと反省」の意を表明しました。しかし日本政府は被害者個人に対する補償(国家賠償)は否定しました。そして補償ではなく、民間から募金を集める「女性に対するアジア平和国民基金」(1995~2007年)による事業を行いました。

 

この国民基金に対して、受け取った被害者もいましたが、「国民基金は補償ではない」「日本軍という日本国家の組織が行った犯罪なのだから、国家が補償すべきだ」として受け取りを拒否する被害者が続出しました。また国際社会も、国民基金は「被害者の法的認知と賠償への要求を満たすものではない」(1998年の国連マクドゥーガル報告)などと批判しました。2007年7月、アメリカ議会下院本会議の「慰安婦」決議は、日本政府に対し「明確であいまいさのない」謝罪を求め、同年12月の欧州議会「慰安婦」決議は、「被害者の賠償を求める権利を認めるべきである」と日本政府に勧告しました。補償をしないという日本政府の立場は、被害者にも、国際社会でも受け入れられないものです。

 

どう解決したらいい?

それではどう解決したらいいのでしょう(具体的には→解決編1−5へ)。

第一は、旧日本軍と日本政府が女性たちをその意思に反して性奴隷状態においたこと、それは当時でも違法であったということを日本政府が明確に認めることです(事実の認定)。「河野談話」は軍の関与と強制性を認めましたが、「慰安婦」制度を創設・運営した主体と責任をあいまいにしているという問題があります。このあいまいさが、国民基金のあいまいな解決方法につながっていると考えられます。被害者や国際社会は明確に「慰安婦」制度は「性奴隷制」であり、日本軍・日本政府に責任があると判断しています。さらなる真相究明のために、資料の公開も必要です。

 

第二は、日本政府による被害者への謝罪とその証である補償の実現です(謝罪と補償)。日本政府はすでに「当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題」(河野談話)だと認めたのですから、まっさきにすべきなのは被害者に対する明確であいまいさのない「謝罪と補償(国家賠償)」をすることです。

 

それは、①閣議決定や国会決議などの公的な形をとって国家の責任を明らかにした謝罪を行い、②被害女性一人ひとりに謝罪の手紙を届け、③立法などにより国家賠償をすることによって、実現できます。市民団体はすでに立法解決案を提案しています。

 

第三は、歴史教育・人権教育を通じて、同じことが繰り返されないように「慰安婦」問題の記憶を継承していくことです(記憶の継承)。日本政府はすでに河野談話で、「歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明」しています。これに基づき、実際に1997年度版の中学校歴史教科書から「慰安婦」に関する記述が登場しました。これは被害諸国・国際社会でも評価されました。

 

しかし残念なことに、1990年代後半から日本社会に「慰安婦」問題を否定する歴史修正主義が出てきて、これらの記述は2006年度版教科書から消えていきました。先に述べたアメリカ下院本会議決議や欧州議会決議は、こうした「記憶の抹殺」を憂慮して採択されたのです。さらに2010年代には日本政府レベルでも「慰安婦」問題を否定し、「河野談話」を見直そうという動きが活発になっています。しかし被害諸国だけではなく、アメリカやヨーロッパ諸国やオーストラリアなどの国際世論は、「歴史を否定する新たな試み」(2013年1月3日付「ニューヨークタイムズ」社説)などと、見直しに強い警告を発しています。

 

残念ながら、国際社会のなかで、日本政府の歴史認識と人権意識は、ガラパゴス化していると言えるでしょう。日本政府・社会は、女性に対する重大な人権侵害である「慰安婦」制度に対して、以上の措置を実行してこそ、被害者・被害諸国をはじめ国際社会の信頼をかちえることができるでしょう。また、きちんと過去を克服することが日本と日本人の新しい誇りになるでしょう。

 

【参考文献】

・「河野談話」全文 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/kono.html

・日本の戦争責任資料センター・アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」編『ここまでわかった!日本軍「慰安婦」制度』かもがわ出版、2007年

・「戦争と女性への暴力」リサーチ・アクションセンター(VAWW RAC)編、西野瑠美子・金富子・小野沢あかね責任編集『「慰安婦」バッシングを越えてー「河野談話」と日本の責任』大月書店、2013年

 

 

 

従軍慰安婦 (岩波新書)

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