読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

解決編 1 日本の法的責任 | Fight for Justice 日本軍「慰安婦」―忘却への抵抗・未来の責任

Fight for Justiceサイトがアクセスできなくなる時があるため、バックアップ的に記載いたします。本サイトは下記です。

解決編 | Fight for Justice 日本軍「慰安婦」―忘却への抵抗・未来の責任

解決編

1 日本の法的責任

1-1 東京裁判とBC級戦犯裁判

1-1画像1 東京裁判

東京裁判

まず、A級戦犯を裁いた東京裁判とBC級戦犯裁判という二種類の戦争犯罪裁判(戦犯裁判)について、説明していきましょう。

 

「戦争犯罪」には大きく言って二つの内容が含まれています。一つは戦争をおこなう際のルールを決めそれに反する行為を戦争犯罪とする考え方であり、もう一つは戦争自体あるいは戦争を起こすこと自体を犯罪とする考え方です。

 

前者については、傷病兵の保護を定めた第一回赤十字条約(1864年)が最初の条約といえます。その後、ジュネーブ条約(1929年)や「陸戦の法規慣例に関する条約(通称ハーグ条約)」とその付属規則(1907年)など戦時国際法が制定され、捕虜の保護、毒ガスや不必要に苦痛を与える兵器の使用禁止、占領地での住民の生命財産の保護、略奪の禁止などが定められ、それらを侵犯することは戦争犯罪とされるようになりました。

 

後者の考え方は、第一次世界大戦後のヴェルサイユ平和条約で、この戦争を開始したドイツ皇帝の「戦争開始者責任」が問われたことが始まりです。ドイツ皇帝は亡命したために裁判にかけられませんでしたが、不正な戦争をおこしたこと自体を戦争犯罪として裁こうとした最初の例です。侵略戦争は違法であるという考え(戦争違法化)は国際連盟の規約(1919年)や「戦争放棄に関する条約(パリ不戦条約)」(1928年)などによって発展していきました。

 

その後、前者を「戦争の法規または慣例の違反(通例の戦争犯罪)」、後者を「平和に対する罪」と呼ぶようになりました。さらに第二次世界大戦中のナチスドイツによるユダヤ人に対するホロコーストという想像を絶する犯罪を念頭において「人道に対する罪」という概念も誕生しました。

 

A級戦犯を裁いたニュルンベルク裁判と東京裁判~BC級犯罪も同時に訴追~

ナチスドイツを裁くために連合国によって作成された国際軍事裁判条例(ニュルンベルク裁判の根拠、1945.8)の第6条において、犯罪のタイプとしてA項「平和に対する罪」、B項「通例の戦争犯罪」、C項「人道に対する罪」と三つに区分したことから、侵略戦争をおこして「平和に対する罪」に問われた国家指導者たちをA級戦犯、それ以外のB項とC項の犯罪を犯した者をBC級戦犯と呼ぶようになりました。ただこれはアメリカ式の呼び方であり、イギリスは主要major戦犯と軽minor戦犯と呼んで区別しています。なおA級の方がBC級より重い罪という意味はありません。

 

このA級戦犯を裁く法廷としては国際法廷としてニュルンベルク裁判と東京裁判の2つが開設されました。ただしA級戦犯と言っても、BC級犯罪も同時に訴追されるのが一般的だったので、「平和に対する罪」だけが裁かれたわけではありません。BC級裁判は戦争犯罪の被害を受けた国が開設する権利を有していたので、各国ごとに開設されています。

 

なおB級とC級犯罪は重なる部分が多いのですが、B級が戦時における敵国民への犯罪であるのに対して、C級は戦時だけでなく平時も含み、自国民への犯罪も対象としていることに大きな違いがあります。たとえばドイツ国民であるユダヤ人を戦争前から迫害したケースは、B級には該当しません。そういう問題があったのでC級が考えられました。たとえば、カンボジアのポルポト派の犯罪は自国民を虐殺したわけだからB級ではなくC級犯罪です。日本についてはC級が適用されませんでしたが、それは植民地民衆(当時は日本国籍)に対する犯罪(強制連行や慰安婦の強制など)が裁かれなかったことと関係しています。

 

1-1画像2東京裁判に提出された証拠書類の一部

東京裁判に提出された証拠書類の一部

東京裁判と性暴力

東京裁判では、女性への性暴力の視点が弱かったことは事実ですが、提出された証拠書類のなかで性暴力を取り上げたものは、中国関係で39点、東南アジア関係で48点、計87点に及びます。

 

そのうち、日本軍「慰安婦」に関係するものも8点あります。オランダの検察官は、インドネシアのボルネオ島(カリマンタン)ポンティアナック、モア島、ジャワ島マゲラン、ポルトガル領チモール(東チモール)の4か所での事例について証拠書類を提出しました。そのうちジャワ島のケースはオランダ女性が被害者、残り三つは地元の女性が被害者のケースです。フランスの検察官はベトナムのランソンと、場所が特定されない「数地方」と記されたケース、中国の検察官は桂林のケースを取り上げ証拠書類として提出しています。これらはベトナム女性と中国女性が被害者のケースです(吉見義明監修『東京裁判―性暴力関係資料』現代史料出版、2011年)。これまで日本の戦争責任資料センターの調査により7点としてきたが、同書により「数地方」とされた証拠書類が確認されており、計8点になります。

 

東京裁判の判決で裁かれた性暴力・「慰安婦」強制事件

こうした検察団の努力により、東京裁判の判決では強かんについて随所で言及されています。また「慰安婦」に関しては、中国についての叙述の中で

 

「桂林を占領している間、日本軍は強かんと掠奪のようなあらゆる種類の残虐行為を犯した。工場を設立するという口実で、かれらは女工を募集した。こうして募集された婦女子に、日本軍隊のために醜業を強制した」

 

と桂林のケースに言及され、戦争犯罪として認識されていたことがわかります。

 

検察が取り上げた「慰安婦」のケースを見ると、第一に、日本人と性的な関係があった女性、あるいはその嫌疑をかけた女性を逮捕して裸にし無理やり「慰安婦」にしたケース、第二に、部族長に「若い女を出せ」と脅して出させたケース、第三に、抗日勢力の討伐に行き男たちは殺害しながら若い女性を連行し「慰安婦」にしたケース、第四に、女工だと騙して募集して無理矢理「慰安婦」にしたケースなどが取り上げられています。つまり日本軍が女性たちを「慰安婦」にした手口の主なパターンが取り上げられていることがわかります。

 

こうしたことから、日本軍の性暴力と「慰安婦」強制事件は、不十分であるとはいえ、東京裁判において戦争犯罪として裁かれたと言えます。

 

BC級戦犯裁判で裁かれたスマラン事件

1-1画像3BC級裁判

BC級裁判

連合国各国がおこなったBC級戦犯裁判ではオランダが、蘭領インド(インドネシア)でのケースをいくつか裁いています。

 

有名なスマラン事件は、1944年にジャワ島スマランにおいて抑留所に収容されていたオランダ人女性ら約35人(16、17歳から20歳代)を日本軍が強制的に「慰安婦」にした事件です。2件13人が起訴され、うち慰安所開設の責任者の少佐が死刑、将校6人と慰安所業者4人が2年から20年の禁固刑になりました。

 

ほかに慰安所に関連して裁かれたケースは、バタビア裁判ではバタビアの慰安所桜倶楽部経営者1人(10年の刑)、東ジャワのジョンベル憲兵隊の大尉1人(他の容疑も含めて死刑、逃亡中に射殺される)、ポンティアナ裁判で海軍大尉以下13人(不法逮捕虐待殺戮の罪も合わせて全員有罪、うち死刑7人)、バリクパパン裁判で慰安所経営者の民間人1人(無罪)があります。起訴された者は全部で29人となります(34人というデータもある)。

 

アメリカ海軍がグアムでおこなった戦犯裁判において、在留邦人が、グアム女性を「意思に反してかつ同意なしに売春目的で不法に連行した」という「慰安婦」強制容疑で有罪となりました。ほかの容疑も含めて死刑判決が下されましたが、最終的には15年の重労働に減刑されています。中華民国がおこなった中国裁判では、強制売春3件と婦女誘拐1件が扱われているが詳細は不明です。資料公開と今後の調査が待たれます。

 

このようにBC級裁判では日本軍「慰安婦」への強制事件が戦争犯罪として起訴され有罪判決がいくつも下されています。

 

戦犯裁判と判決を受諾した日本政府

これらの戦犯裁判を日本政府は否定することができるのでしょうか。日本は、世界を相手におこなった侵略戦争で敗北した結果、連合軍による占領下におかれましたが、1951年9月に調印されたサンフランシスコ平和条約によって、翌年4月に独立を回復した。その第11条において日本国は次のように国際社会に約束しました。

 

第11条 日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。(以下略)

 

ここで単語Judgmentの訳をめぐって「裁判」か「判決」かという議論がありますが、東京裁判とBC級裁判において有罪と下された判断を日本国は認めなければならないことに違いはありません。つまりこれらの「判決」(「裁判」)を日本は受諾しています。

 

ところが日本政府は、そうした有罪判決を受けた戦争犯罪を反省するどころか、その後、死刑になったり獄死した戦犯を靖国神社に合祀しています。つまり「慰安婦」強制によって有罪となった者を、それと知りながらも、国家の英雄=英霊として称えているのです。戦犯合祀の手続きは、厚生省と靖国神社の共同作業としておこなわれており、これは十一条の趣旨を公然と踏みにじるものです。

 

平和条約は、朝鮮戦争の最中にアメリカの政治的思惑に沿って作られ、日本の戦争責任をあいまいにしたという問題があります。そうだとしても日本政府が日本軍「慰安婦」強制を否定することは、戦後日本の出発となった平和条約での約束を反故にすることです。冷戦状況を利用して戦争責任から逃げてきたのが日本でした。冷戦が終わった今日、真摯に自らの戦争責任に認め、その責任を果たすことが、平和国家をめざす日本の義務でしょう。

 

<参考文献>

・粟屋憲太郎『東京裁判への道』講談社、2006年

・戸谷由麻『東京裁判—第二次大戦後の法と正義の追及』みすず書房、2008年

・日暮吉延『東京裁判の国際関係』木鐸社、2002年

・日本の戦争責任資料センター、アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」編『ここまでわかった!日本軍「慰安婦」制度』かもがわ出版、2007年

・林博史『戦犯裁判の研究―戦犯裁判政策の形成から東京裁判、BC級裁判まで』勉誠出版、2010年

・林博史『BC級戦犯裁判』岩波新書、2005年

・吉見義明監修、内海愛子・宇田川幸大・高橋茂人・土野瑞穂編『東京裁判―性暴力関係資料』現代史料出版、2011年

1-2 サンフランシスコ講和条約と賠償問題

アジア太平洋戦争において日本軍が犯した罪について、日本政府は「賠償問題は全て解決済み」という基本姿勢をとり続けています。そのような日本政府の態度の原型をつくったのがサンフランシスコ講和条約でした。

 

1951年9月にアメリカ合衆国(米国)のサンフランシスコで調印され、翌52年4月に発効したこの条約は、正式名称を「対日平和条約(Treaty of Peace with Japan)」といいます。これは、アジア太平洋戦争を正式に終わらせ、賠償の方針などをとりきめ、連合国との関係を正常化するために結ばれたものですが、参加したほとんどの国が賠償を放棄するという特徴をもっていました。なぜ、このような条約が結ばれることになり、そのことがその後どのような影響をもたらすことになったのでしょうか?

 

以下にその背景を説明しますが、その際にキーワードとなるのが「冷戦」です。第二次世界大戦では同じ連合国だった米国とソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)は、戦後、それぞれが世界の資本主義と社会主義をリードする超大国として緊張関係を強めていきました。この対立は各国へと及び、世界を次第に自由主義陣営(西側諸国)と社会主義陣営(東側諸国)へと分割していきました。米ソ間では全面的な戦争(熱戦=ホット・ウォー)にはいたらなかったものの、世界各地にさまざまな影響を及ぼしたため、これを冷戦(コールド・ウォー)といいます。サンフランシスコ講和条約にも、この冷戦の論理が深く影響していました。

 

写真1署名

写真 サンフランシスコ講和条約調印場面
(所蔵) 外務省外交史料館

 

日本の無賠償方針への転換:優先された冷戦の論理

日本の敗戦直後、対日講和の枠組はもっと厳しいものでした。まず、日本が敗戦にあたって受諾したポツダム宣言の第11項には、次のような文言があります。

 

日本国は、その経済を支え、かつ公正な実物賠償の取り立てを可能にさせるような産業を維持することを許される。ただし、日本国が戦争のために再軍備することを可能にさせるような産業は、その限りではない。(現代語訳)

 

日本の戦争産業はやめさせるが、通常の経済を維持できる程度の産業は残すし、実物によって賠償を取り立てられるような産業も許すという方針が書かれています。

 

この方針に基づいて、日本の敗戦後、米国は賠償を具体化させるために調査団を派遣しました。最初のポーレーによる報告は、再軍備が不可能な程度に厳しく賠償を求めるものでした。ところが、その後、ストライク報告、ジョンストン報告と賠償方針が緩和され、1948年5月のマッコイ声明にいたって賠償撤去を中断すべきことが明言されました(表1)。その変化の背景には冷戦がありました。日本に賠償させすぎると、経済復興が遅れ、米国にとっても経済的負担になるばかりか、冷戦の最前線であるアジアの不安定要因となるという考え方がありました。日本を経済的に立ちなおらせ、早く他国と関係を正常化して自由主義陣営側の国際社会に復帰させることを最重要視するようになったのです。このことは米国の占領政策が、日本の非軍事化と民主化を最優先させる論理から、冷戦の論理へと転換していく、いわゆる「逆コース」の流れと呼応していました。

 

表1

表1 サンフランシスコ講和条約以前の対日賠償指針の変遷

 

その冷戦の論理を一挙に加速させたのが、中華人民共和国の成立(1949年10月)と朝鮮戦争(1950年6月~1953年7月)でした。中国大陸で内戦の末に社会主義体制をもつ大国が生まれ、東西両陣営に分断されていた朝鮮半島で世界各国の参戦する戦争が起きたことで、東アジアは世界の冷戦問題の中心地となりました。日本をアジアにおける資本主義のモデル国とし、社会主義がそれ以上広まらないようにする「反共の防波堤」にしようという構想が肥大しました。

 

サンフランシスコ講和条約の性格:無賠償と経済協力

そうした流れのなかで、米国やイギリスを中心とする自由主義陣営の諸国は、連合国が全て参加する全面講和を目論むよりは、まずは可能な国だけが参加する単独講和を急ぐことになりました。

 

そして1951年9月、サンフランシスコで52カ国が参加して対日講和会議が開かれました。ソ連・ポーランド・チェコスロバキアは署名を拒否し、インドやビルマは会議への出席を拒否し、中国・台湾・南北朝鮮は招待されませんでした(後述)。そのような場で調印された講和条約の第14条は、賠償について次のように定めました。

 

日本は、戦争で与えた損害と苦痛に対して連合国に賠償すべきだが、いまの日本の経済状態ではそれを完全に果たすのが難しい。連合国が賠償を望むときには、〔金や物ではなく〕日本人の役務〔働くこと〕でかえすような賠償についての交渉をはじめること。そうでなければ、連合国は賠償をすべて放棄すること。(要旨)

 

もともと全ての連合国が賠償を放棄するという話もあったのですが、フィリピンの反対などがあったことで、辛うじて賠償交渉に関する項目が盛り込まれました。この条項にもとづいて連合国のうち46ヵ国が賠償を放棄しました(表2)。参加国のなかでフィリピン、インドネシア、南ベトナムにだけ、この枠組で後日に交渉がおこなわれ賠償協定が結ばれました。ラオスとカンボジアも講和会議で賠償を希望していましたが、結果的に賠償の権利を放棄しました。非参加国中でもビルマとは賠償協定を結んでいます。ただ、どれも実態は「賠償」という名目の経済協力または貿易で、被害者個人への補償はおこなわれませんでした。

 

表2

表2 サンフランシスコ講和条約と賠償

 

東アジア諸国はなぜ参加できなかったか:中国・台湾、南北朝鮮

東アジアの非参加国について見ておきましょう。中国大陸・台湾・朝鮮半島の人々は、大日本帝国の侵略戦争と植民地支配によって長期にわたって多大な苦痛と損害をこうむりました。にもかかわらずその被害国が、なぜサンフランシスコ講和会議に参加できなかったのでしょうか?

 

まず、中華人民共和国と台湾(中華民国)の参加については、米国と英国で意見が分かれ、結局どちらも招待しないことになりました。当時、中華人民共和国の外務大臣だった周恩来は、「米国が勝手に講和会議を進め、中国のように日本と交戦した国を除くのは、真の平和条約を結ぶことを破壊するものだ」と非難していました(対日講和問題に関する周恩来中国外相の声明:1951年8月15日)。その後、台湾は1952年の日華基本条約(日台条約)で賠償を放棄し、中華人民共和国も国際情勢の力学のなかで1972年の日中共同宣言で賠償を放棄することになりました。

 

南北朝鮮の両政府は、いずれもそれぞれの立場から対日講和会議への参加を求めていたのに実現しませんでした。

 

まず大韓民国(南朝鮮)の場合から見てみましょう。南朝鮮過渡政府およびその後の大韓民国政府の主張は、賠償を「戦勝国が敗戦国に対して要求する、すなわち勝者の損害を敗者に負担させる戦費賠償の概念とは異なる特殊な性質をもっている」(<対日通貨補償要求の貫徹>、《朝鮮経済年報》朝鮮銀行調査部、1948年、I-334頁)と位置づけ、「日本を懲罰するための報復の賦課ではなく犠牲の回復のための公正な権利の理性的要求」である(『対日賠償要求調書』1949年9月)とした点に特徴がありました。戦勝国が要求する賠償とは異なる植民地支配に対する賠償の理念を提示している点が注目されます。

 

こうした観点もあって、時の李承晩(イ スンマン)政府は対日講和会議への参加を強く要求しました。この要求に対し、日本とイギリスがそれぞれ反対しました。日本は、韓国が参加したら、在日朝鮮人に賠償権を認めることにもなってしまうなどといった論理で反対しました(吉田茂首相が1951年4月にダレス米国特使に提出した文書による)。イギリスは、対日講和での旧植民地の地位は旧宗主国の地位に準ずるという植民地主義の論理を提起しました。そうしたこともあり、韓国は講和会議に招待されませんでした。李承晩大統領は、これに「日本帝国主義と最も長くたたかった韓国人が、対日講和条約の署名国から除かれたのは全く理解できない」と強く批判しました(《朝鮮日報》1951年9月5日)。

 

次に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の方を見てみましょう。共和国政府は、単独講和の動きに反対し、ソ連等に対し「対日単独講和条約案に対する朝鮮人民の態度」という公式書簡を送りました(1951年6月23日付;『新時代』II-9、1951年9月所収)。そのなかで共和国政府は、日本の侵略に対してパルチザン闘争などを通じて戦い、朝鮮人民が大きな犠牲を払ったことからしても、対日講和会議に招請されるべきだと主張していました。結局、南北朝鮮のいずれにも招待状は送られず、そのことに対し共和国政府は何度か抗議声明を出しました(《朝鮮民主主義人民共和国対外関係史1》社会科学出版社、1985年、91-98頁)。

 

こうして冷戦秩序のなかで分断された東アジア諸国は講和会議に参加できなかったのです。講和条約では、日本が中国での権利や利益を放棄し(第10条)、朝鮮の独立を認め(第2条a)、台湾の領土権を放棄すること(第2条b)などを明記していました。植民地だった朝鮮や台湾の賠償については論及がなく、財産をどうするかといった問題に関わる「請求権」について、日本と直接話し合って決めるように定められた程度でした(第4条a)。そのため旧植民地における日本による被害への賠償問題は不明瞭になり、講和条約で設定された「請求権」という土俵のうえで、その後の2国間の交渉に委ねられることになりました。

 

写真2条約書

サンフランシスコ講和条約の認証謄本
(所蔵) 外務省外交史料館

 

日本の東南アジア諸国への「賠償」や経済協力は1950年代後半以降に実施されました。時期的には高度経済成長期に入った段階で実施されたため、結果的に日本の「賠償」や経済協力は東南アジアへの経済的な再進出の足がかりとなったのです。1965年に結ばれた日韓条約では請求権を相互放棄し、日本人の役務や現物による経済協力をおこなうことになりましたが(解決編1-3を参照)、この方向性は既にサンフランシスコ講和条約体制に規定されていました。その意味で、サンフランシスコ講和条約は、戦後日本の「賠償」のあり方を大きく左右するものになったのです。

 

<文献>

大蔵省財政史室編『昭和財政史:終戦から講和まで』第1巻 (東洋経済新報社、1984年)
竹前栄治他監修『GHQ日本占領史第25巻 賠償』(日本図書センター、1996年)
太田修『日韓交渉:請求権問題の研究』(クレイン、2003年)

 GHQ 昭和財政史 日韓交渉

 

 

1-3 日韓請求権協定と「慰安婦」問題

 

日韓条約

1965年6月22日に東京の首相官邸で行なわれた、日韓基本条約の調印式の風景

1965年6月22日に、日韓基本条約(正式には「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」)が締結されました。これに付随して同日、日韓請求権協定(正式には「日本国と大韓民国との間の財産および請求権に関する問題の解決ならびに経済協力に関する協定」)が締結されました。

 

同協定第2条1項には、「両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、1951年9月8日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第四条(a)に規定されたものを含めて、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」とあります。

 

請求権で「完全かつ最終的に解決された」のか?

書映 戦後日韓関係

そこで、この「完全かつ最終的に解決された」請求権がどんな内容で、どう処理されたのか確認したいと思います。

 

第一に、韓国側の対日請求権の内容について、日本の外務省は「日本からの韓国の分離独立に伴って処理の必要が生じたいわゆる戦後処理的性格をもつ」ものとして理解していました。つまり、それは、日本が植民地朝鮮を合法支配したという前提とした「戦後処理」ということです。

 

書映 日韓交渉この協定が締結された後に、労働省、大蔵省、厚生省などが消滅させようとした韓国側の個人請求権を見ても、郵便貯金や未払金などの、植民地期の法律関係を前提とするものです。日韓請求権協定で「解決」された請求権は、「慰安婦」問題などの戦争犯罪による被害については想定されていなかったのです。第二に、韓国側の対日請求権の処理方法について、外務省は外交保護権の放棄だけを想定していました。このことについて、外務省の説明に沿って考えてみましょう。

 

その要点は二つです。第一に、外交保護権とは「自国民に対して加えられた侵害を通じて、国自体が権利侵害を蒙ったという形で、国が相手国に対して国際法のレベルにおいて有する請求権」です。第二に、したがって、国は私人の代理人ではありません。「国は自己の裁量により、この種請求を提起するか否かを決定することが出来、また相手国による請求の充足に関してもどのような形、程度で満足されたものとするかそれを被害者にどう分配するか等につき、完全に自由に決定することが出来る」というのです。つまり、外交保護権とは、自国民の権利侵害を国自身がこうむったものと見なし、国の裁量で行使するものというわけです。

 

このような考えに基づいて、日本政府は日韓両国が外交保護権を放棄したことにより、私人の権利が消滅したかどうかを曖昧にしたまま、相手国または相手国民の財産をそれぞれ処分してよいと判断しました。その結果、日本政府は日本の国内法として韓国人個人の請求権を消滅させる措置として、1965年12月17日に「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定第二条の実施に伴う大韓民国等の財産権に対する措置に関する法律」を制定したのです。

 

論議されなかった「慰安婦」被害

なお、日韓請求権協定が締結されるまでの交渉では、「慰安婦」問題はほとんど議論されませんでした。外交文書で一度だけ確認できますが、それは韓国側の代表が「日本あるいはその占領地から引揚げた韓国人の預託金」を議論する文脈で、「慰安婦」の事例を出したに過ぎず、「慰安婦」の被害に関する内容を含まないものでした。

 

日韓請求権協定では、日本の朝鮮植民地支配とアジア侵略戦争によって引き起こされた「慰安婦」の被害に対する歴史的責任の問題が解決されたと言うことはできません。

 

 

<参考文献>

・高崎宗司『検証 日韓会談』岩波書店、1996年

・吉澤文寿「日韓国交正常化」(中野聡ほか編『ベトナム戦争の時代1960-1975(岩波講座

東アジア近現代通史 第8巻)』岩波書店、2011年)

・吉澤文寿『戦後日韓関係—国交正常化交渉をめぐって』クレイン、2005年

・太田修『日韓交渉―請求権問題の研究』クレイン、2003年

1-4 日韓協定関連文書の開示と「慰安婦」問題

 

「勝訴」に喜ぶ李容洙さんと李鶴来さん(2012年10月11日、東京地裁正門前にて)

日韓請求権協定発効後に韓国政府が行なった韓国国民に対する補償措置は、財産関係と死亡者に限定された、きわめて不十分なものでした。その後、韓国で民主化が実現すると、ようやく韓国人をはじめとするアジア・太平洋戦争による戦争被害者が日本政府を訴える状況が本格化します。しかし、韓国人被害者の前に大きく立ちはだかったのが「日韓協定で補償問題は解決済み」とする司法を含めた日本政府の立場でした。

 

韓国の被害者が果たした日韓会談文書公開

このような経緯を打開したのが、日韓基本条約および諸協定に関連する公文書の開示でした。2004年2月13日、ソウル行政法院で、韓国人被害者100名を原告とする日韓会談文書の情報公開請求訴訟において、原告一部勝訴の一審判決が出ました。韓国政府は2005年8月26日までに161件、合わせて約3万6千枚をすべて開示しました。

 

このとき、韓国政府の「韓日会談文書公開後続対策関連民官共同委員会」は「日本軍慰安婦問題など、日本政府、軍などの国家権力が関与した反人道的不法行為」が請求権協定によって解決されていないとして、「日本軍慰安婦問題は日本政府に対して、法的責任の認定など、持続的な責任追及を行なう一方、国連人権委員会などの国際機構を通じてこの問題を引き続き提起する」ことを韓国政府に勧告しました。

 

この見解を受けて、韓国政府は外交ルートを通して、日本政府に「慰安婦」問題の解決を促すよう申し入れました。しかし、日本政府は2010年8月10日に菅直人首相の談話を発表し、11月に朝鮮王室儀軌などの文化財の韓国政府への引き渡しを決めただけでした。

 

書映「慰安婦」バッシング韓国憲法裁判所「決定」で動き出した韓国大統領

しかし、その翌年の2011年8月30日に韓国憲法裁判所は「慰安婦」の賠償請求権が日韓請求権協定で消滅したか否かについて、日韓間の解釈上の「紛争」があると判断しました。そして、この問題の解決に向けて日本政府に具体的な行動を取らない韓国政府の不作為を、国民の基本的人権などを定めた韓国憲法に照らして「違憲」としたのです。

 

すなわち、日韓請求権協定第3条1項に「この協定の解釈及び実施に関する両締約国の紛争は、まず、外交上の経路を通じて解決するものとする」とあります。この「紛争」は日韓双方の政府が任命する各1名の仲裁委員と、第3国の仲裁委員の3名からなる仲裁委員会に委ねられます。日韓両国政府はこの仲裁委員会の決定に服さねばなりません。

 

これを受けて、同年12月18日に京都、そして翌2012年5月13日に北京で行なわれた日韓首脳会談では、李明博大統領が野田佳彦首相にこの問題の解決を強く促しましたが、日本側は具体的な対応をしていません。また、外務省はホームページを通して、「女性のためのアジア平和国民基金」(国民基金)に協力した「実績」を全面に掲げ、国連人権フォーラムでも日本政府の対応が評価されていると自画自賛するにとどまっています。

 

書映 未解決の戦後補償韓国大法院は「損害賠償請求権は日韓請求権協定の対象外」と判断

しかし、2012年になって、日韓請求権協定関連で重要な動きが二つありました。

第一に、5月24日に、三菱広島元徴用工原爆被害者・日本製鉄元徴用工裁判で韓国大法院は原審判決を破棄し、事件を釜山高等法院に差し戻す判決を出しました。この判決で、大法院は強制連行被害者の被害そのものに対する損害賠償請求権が日韓請求権協定の適用対象に含まれず、それについての韓国政府の外交保護権も放棄されていないという判断を示しました。

 

 

日本の裁判所が命じた外交文書開示

 

画像1aide_memoire19530528

aide-memoire…1953年5月28日の第2次会談請求権委員会で、日本側が韓国側に手渡したメモ。左側が日本政府開示文書、右側が韓国政府開示文書。韓国政府はこの部分をすべて開示している。

画像2 日韓首脳会談19611112

1961年11月12日の日韓首脳会談の内容。2008年に不開示だった部分(左側)が2013年に開示された(右側)。

 

第二に、10月11日に東京地方裁判所は、外務省が管理する外交文書の一部を開示せよと命ずる判決を出しました。日本でも市民団体の情報公開請求に応じて、外務省は2008年5月9日までに約6万枚の文書を開示しました。しかし、不開示部分が多い不十分な決定であったため、市民団体による訴訟活動が続いてきました。判決は作成から30年が経過した文書を不開示とするには相当の根拠が必要という明確な基準を示したことが画期的でした。さらに、控訴した外務省も独自に判断して不開示部分を開示する方針を示しました。

 

このように、2000年代に入り、情報公開を通して日韓請求権協定の内実が明らかになるにつれて、「慰安婦」問題の解決を求める運動も強まってきました。今こそ、日本政府は「慰安婦」問題の解決に向けて、具体的な行動をとるべきです。

 

<参考文献>

・李洋秀「疑問多い日韓条約での解決済み―日韓会談の文書公開と情報開示」(田中宏・中山武敏・有光健他著『未解決の戦後補償』創史社、2012年)

・日本軍「慰安婦」問題解決全国行動『―日本軍「慰安婦」問題―本当に「日韓請求権協定で解決済みか? 韓国憲法裁判所「決定」を読む」2011年

・日韓会談文書・全面公開を求める会HP  http://www.f8.wx301.smilestart.ne.jp/

1-5 解決への提言

「慰安婦」問題の解決には何が必要でしょうか。実は、解決に向けた提言がすでにあります。ここでは、これを紹介します。

1-5画像  2007年7月30日、アメリカ下院本会議で「慰安婦」謝罪要求決議が可決された翌日の7月31日に 、これまで「慰安婦」問題の調査研究を担ってきた日本の戦争責任資料センター、「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク(当時。現在は「戦争と女性への暴力」リサーチ・アクションセンター)、アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)の三団体で、「日本軍「慰安婦」問題における謝罪には何が必要か」という提言を日本政府に提出しました。

さらに8月11日にはこれまで発掘された資料や調査研究の蓄積と成果、被害女性たちの証言をもとに、シンポジウム「ここまでわかった!日本軍『慰安婦』制度」を開催しました(シンポジウムの発言を収録した本が同名で、同年末にかもがわ出版から出版されました)。

この提言には、「慰安婦」問題に取り組む日本の諸団体が賛同しました。その意味で、集約的な提言になっているので、ぜひお読みください。

 

提 言

日本軍「慰安婦」問題における謝罪には何が必要か

アメリカ議会下院に「慰安婦」決議案が提出されたことを機に、安倍首相は「慰安婦」問題における旧日本軍の強制性を否定する発言をおこない、今もそれを撤回していない。しかし、強制性に関する事実関係はアジア各地の被害女性から証言がなされており、被害女性の闘いにより日本の最高裁判所の判決でも認定されているものであり、かつ、これまで積み上げられた調査・研究からも明らかである。

日本政府は「これまで何度も謝罪した」とくりかえすが、それは被害女性たちの納得を得る謝罪ではなかった。その理由は第一に、これらの「謝罪」が国家の責任を明確かつ公的に表明したうえでなされなかったこと、第二に、「慰安婦」問題に対する国の責任を否定する言説が、閣僚を含めて繰り返されたことにより謝罪の信頼が失われたこと、第三に、教科書から「慰安婦」に関する記述が激減したことを「良かった」とする閣僚発言等が野放しにされ、事実に基づいた認識を培うべき教育への取り組みがなされてこなかったこと、第四に、謝罪が全地域の被害者個人に直接届けられなかったこと、第五に、謝罪とは賠償を伴うものであるが、それがなされてこなかったこと、などである。

被害国をはじめ国際社会が日本の対応を注視している今、被害者が納得する謝罪とはどのようなものか、また、日本は何をなすべきかを考えなければならない。そこで、これまで「慰安婦」裁判を支援し、あるいは調査・研究に取り組むなどして「慰安婦」問題の真の解決を願ってきた立場から、日本政府がいかなる対応をとることが必要であるかについて、私たちは提言する。

提 言

1、   日本政府は、旧日本軍および日本政府が、満州事変開始からアジア太平洋戦争の終結までの間、植民地や占領地などの女性を本人の意思に反して「慰安婦」にし、強制的に性奴隷状態においたこと、及びこうした行為が当時の人権水準に照らしても違法なものであったことを明確に認めること。

2、   その上で、日本政府または国会は、閣議決定や国会決議などの公的な形をもって、日本国家としての責任を明確にした謝罪を表明すること。

3、   日本政府は、被害を与えた全ての地域の女性たち一人ひとりに、謝罪の手紙を届けること。

4、   この謝罪の意を示すため、日本政府は被害者に対して新たな立法をもって賠償金の支払をおこなうこと。

 

なお、この謝罪が日本の真意であることを表わすため、以下の措置を講じる。

(1)      日本政府は、全ての非公開文書を公開し、十全な真相究明を行うこと。また、被害国すべての被害実態を調査し、様々な被害の実態を認識すること。

(2)      日本政府は、この問題を後世に正しく伝え、再び同じことが繰り返されないよう、教育的施策を講じること。

(3)      日本政府は、日本軍「慰安婦」制度の強制性・犯罪性を否定するいかなる言動に対しても、毅然とした態度で反駁し、被害者の尊厳を守ること。

以上、提言する。

2007年7月31日

日本の戦争責任資料センター
「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク
アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」

 

【賛同団体】

戦後責任を問う・関釜裁判を支援する会
フィリピン人元「従軍慰安婦」を支援する会
フィリピン元「慰安婦」支援ネット三多摩(ロラネット)
フィリピン人元「慰安婦」と共にLUNAS・ルナス
日本カトリック正義と平和協議会
在日の「慰安婦」裁判を支える会
中国人「慰安婦」裁判を支援する会
山西省・明らかにする会
台湾の元「慰安婦」裁判を支える会
ハイナン・ネット
日本軍「慰安婦」問題行動ネットワーク
日本キリスト教協議会(NCC)女性委員会
売買春問題ととりくむ会
強制連行・企業責任追及裁判全国ネットワーク
旧日本軍による性的被害女性を支える会
在日韓国民主女性会
旧日本軍性奴隷問題の解決を求める全国同時企画・京都実行委員会
東ティモール全国協議会
日本軍「慰安婦」歴史館後援会
カトリック東京教区正義と平和委員会
日本キリスト教会
日本軍「慰安婦」問題と取り組む会
日本キリスト教婦人矯風会
早よつくろう!
「慰安婦」問題解決法・ネットふくおか
「慰安婦」問題と取り組む九州キリスト者の会
女性エンパワーメントセンター福岡
過去を克服して共生のアジアをめざす共同行動実行委員会
全国同時企画・福岡実行委員会
関釜裁判を支える広島連絡会
平和(ぴょんふぁ)会
Maluの会(日本軍占領期東ティモール性奴隷制に取り組む会)
あづみの道草あかとんぼの会
日本軍性奴隷問題の解決を求める会in大阪