【書籍紹介】『「慰安婦」バッシングを越えて「河野談話」と日本の責任』

日本女性学研究会のFacebook 2月10日の投稿より

 

「戦争と女性への暴力」リサーチ・アクションセンター編、西野瑠美子、金富子、小野沢あかね責任編集『「慰安婦」バッシングを越えて 「河野談話」と日本の責任』(大月書店 2013) 2200円+税

本書は2013年出版だが、現在まさに問題になっている点を論じている。第1部は、強制性を否定する議論や「慰安婦公娼だった」として「慰安婦」被害を否定する議論に反論しており、第2部は、昨年後半盛んになった「国民基金」評価論や被害者不在の「和解」論を批判しているからだ。さらに、第3部では、「慰安婦」問題の解決のためになすべきことを多角的に提起している。以下、まず、目次を示す。

 

目次

第1部「河野談話」と「慰安婦」制度の真相究明――何がどこまでわかったのか?
1 「河野談話」をどう考えるか――その意義と問題点(吉見義明)  
2 被害者証言に見る「慰安婦」連行の強制性(西野瑠美子)
【コラム】中国山西省・盂県に見る性暴力被害の強制性(池田恵理子
3 「慰安婦」問題と公娼制度(小野沢あかね)
【コラム】「慰安婦」誘拐犯罪――静岡事件判決(前田朗) 

第2部 日本政府の法的責任――なぜ「国民基金」は解決に失敗したのか?
1 「国民基金」の失敗―日本政府の法的責任と植民地主義(金 富子)
2 韓国挺対協運動と被害女性―なぜ「国民基金」に反対したのか(尹美香)
3「国民基金」と反対運動の歴史的経緯(鈴木裕子
【コラム】東京裁判BC級戦犯裁判と日本政府の責任(林博史
4 被害者不在の「和解論」を批判する(西野瑠美子)

第3部 「慰安婦」問題の解決――今何が必要か        
1 なぜ多くの若者は「慰安婦」問題を縁遠く感じるのか――若者の現在を読み解く(中西新太郎
2 教科書問題と右翼の動向(俵義文)
【コラム】忘却に抵抗するドイツの歴史教育・記憶の文化(岡裕人)
3 「慰安婦」問題の解決に何が必要か――被害者の声から考える(梁澄子)
【コラム】日本軍「慰安婦」問題解決のためのもう一つの国連人権制度・UPR(安善美)
4 日韓請求権協定と「慰安婦」問題(吉澤文寿)
5 世界史のなかの植民地責任と「慰安婦」問題(永原陽子

付録 ブックガイド、年表、「河野談話」など各種資料

 

まず、吉見義明「『河野談話』をどう考えるか――その意義と問題点」は、「慰安婦」に関する「強制」の問題について、必ず押さえておくべき基本が書かれている。また、西野瑠美子「被害者証言に見る『慰安婦』連行の強制性」は、連行の強制性の問題に絞って、各国の被害者証言を分析している。

 

小野沢あかね「『慰安婦』問題と公娼制度」は、「慰安婦公娼だったから、商売だったので問題はない」という議論を批判する。そもそも日本軍は売春とは関係がなかった女性も多数、その意思に反して「慰安婦」にしているのだが、たしかに日本人「慰安婦」の場合は、もともと売春をしていた女性が募集に応じたケースがしばしば見られる。しかし、その女性たちは、金銭で売られ、(返済の見通しが持てない)前借金返済まで売春を強制されていたからこそ、借金を軍が肩代わりしてくれると聞いて募集に応じたのである(その結果、戦場で亡くなった女性も多い)。そうした前借金契約を認めるような公娼制度は、当時ヨーロッパ各国では廃止され、1921年の婦女売買禁止の国際条約で禁止されたにもかかわらず、日本は詭弁を弄してそれを維持していた。つまり、「『慰安婦』は『公娼』と同じだったから問題がないどころか、むしろ女性の人身売買が野放しに行なわれていたことが戦時に『慰安婦』の大規模徴集を可能にした一つの大きな要因だった」(p.49)のである。

 

第2部「日本政府の法的責任――なぜ『国民基金』は解決に失敗したのか?」は、日本政府が「道義的責任を果たす」と称して官民合同で設立した「女性のためのアジア平和国民基金(国民基金)」を批判している。

 

金富子「『国民基金』の失敗―日本政府の法的責任と植民地主義」は、「国民基金」の「償い金」は民間からの募金にすぎず、「総理のお詫びの手紙」もその「償い金」を受け取った被害者にしか渡されなかったこと、韓国政府や国連、国際社会も「国民基金」を批判し、被害者への明確な謝罪と法的賠償を求めていること、「国民基金」は被害者間に分裂をもたらしたことを述べる。金氏は、さらに、「国民基金」が受け入れられない責任を韓国側(および運動体のナショナリズム)に求める議論を批判する。

 

尹美香「韓国挺対協運動と被害女性―なぜ『国民基金』に反対したのか」は、韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)が、被害女性どうしの共感を通じた治癒活動、法的政策的要求、支援システムのネットワーク構築、経済的支援、自尊心・人権回復のための活動などに取り組んできたこと、それゆえ被害者を「同情と施しの対象」とみるような「国民基金」には反対したことや「国民基金」の「非道徳的活動」について述べている。

 

鈴木裕子「『国民基金』と反対運動の歴史的経緯」は、「国民基金」が出てきた過程とそれに反対する国際的運動(韓国・日本の団体だけでなく、台湾の婦女救援連絡会などによるものも紹介しいてる)の歴史的経緯をたどっている。

 

西野瑠美子「被害者不在の『和解論』を批判する」は、日本でリベラルと言われている人や『朝日新聞』も持ち上げている朴裕河(パク・ユハ)氏の『和解のために』を批判する。朴氏が「『日本が謝罪も補償もしてない』というのは韓国の誤解だ」と主張していることに対して、西野氏は、国民基金はけっして政府の「補償」ではない(日本政府もそう述べている)と主張している。西野氏は、「和解先にありき」の和解論は、むしろ解決の脅威となると言う。

 

第3部「『慰安婦』問題の解決――今何が必要か」は、「慰安婦」問題の解決をめざすために、今何をなすべきか、何を考えるべきかを、さまざまな観点から示している。その中のいくつかをご紹介する。

 

梁澄子「『慰安婦』問題の解決に何が必要か――被害者の声から考える」は、真に「現実的な解決案」とは「被害者が受け入れられる案」であると主張している。宋神道さんが、「見舞金」案や「未来志向」云々を初めて耳にしたとき、「今、国民がね、(生活保護をもらっていることに対して)われわれの税金で食ってるだのなんのって言う世の中に、見舞い金として払ってもらったからって、あとでどのようなことを言われるか、また白い目で見られるんじゃないの。とにかく国民から金取るより政府でやるべきなんだよ。」「[われわれは]若い時に引っ張られて行っている人間たちだよ。それ五〇年ふんなげつけてさ。今さらなんや、未来がどうのこうの」「たかが知れた金もらって、ああそうかなって涙のんでるよりも、もらわないでハッパかけたほうがよっぽどいいよ」と答えた発言は重い。

 

吉澤文寿「日韓請求権協定と『慰安婦』問題」は、日韓会談においては、第一に、戦争被害としての「慰安婦」問題は議論されなかったし、日韓請求権協定で「完全かつ最終的に解決された」請求権の範疇としても想定されていなかったこと、第二に、日本政府は、請求権の処理を外交保護権のみにとどめ、私的な権利については曖昧にしたまま、国内法を制定して韓国人個人の請求権を消滅する手順をすすめたと述べている。また、2000年以降、韓国および日本で日韓会談文書が公開されたことにより、「慰安婦」問題が日韓請求権協定の対象ではないと確認され、同協定第3条による「紛争」解決の可能性が示されたが、日韓政府レベルでは、その後の進展がない状況などを指摘している。

 

原陽子「世界史のなかの植民地責任と『慰安婦』問題」は、1990年代以降、世界の各地で植民地支配の責任をめぐる議論が活発になり、21世紀に入ると、「植民地責任」が実際の償いに結晶してきていることを述べている。永原氏は、植民地体制下での暴力の被害者が旧植民地国家を訴えて勝訴し、補償がおこなわれた最初の例として、オランダ植民地支配末期のインドネシアの「ラワグデ事件」を挙げている。これは、1947年、ラワグデ村で、ゲリラ指導者を村人が匿っていると断じたオランダ軍が、村の男たちのほぼ全員を銃殺した事件である。また、ケニアの元マウマウ団闘士たちが、イギリスに強制労働、拷問、性的拷問などの償いを求めた裁判で、これも請求権が認められ、和解が勝ち取られた。永原氏は、このようにして、「慰安婦」問題を単に日韓の間の歴史認識をめぐる対立としてではなく、20世紀から21世紀の世界史の問題として理解することを試みている。

 

 

 

以上、中西氏や俵氏の論文には触れられなかったが、コラムも多彩であり、本書は、運動の歴史を振り返りつつ、多角的に最先端の問題を論じた本だと言えよう。(遠山日出也)

 

 

「慰安婦」バッシングを越えて: 「河野談話」と日本の責任

「慰安婦」バッシングを越えて: 「河野談話」と日本の責任