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高和政×鄭栄桓×中西新太郎 『座談会 いまなぜ、「和解」が求められるのか』

『前夜NEWSLETTER』Vol.4, 2008.5.3(編集・発行特定非営利活動法人前夜)掲載

 発行元の「前夜」と座談会参加者様のご厚意により転載いたします。

■目次

 

二〇〇六年に刊行された朴裕河『和解のために 教科書・慰安婦・靖国・独島』が、再び話題となっている。朝日新聞社が主催する第七回大佛次郎論壇賞を受賞し、いわゆる「リベラル」な知識人から絶賛の声が寄せられているのである。問題点も多い『和解のために』が、なぜこれほどまでに賞讃されるのか。日本の言説状況をよくあらわすこの現象について、高和政・鄭栄桓・中西新太郎の三者で討議を行なった。

 

* * *

 

高和政 二〇〇六年の終わりに日本で翻訳出版された朴裕河著『和解のために――教科書・慰安婦・靖国・独島』(佐藤久訳、平凡社、二〇〇六年)が大佛次郎論壇賞を受賞し、日本社会の知識人のなかで高い評価を得ているようです。この本は、日本と韓国の間に横たわる四つの政治的な問題――歴史教科書、日本軍「慰安婦」、靖国、独島――について、「和解」の方向にもっていくために書かれています。その「和解」ために問題視されているのは、日本を批判しつづける「反日ナショナリズム」に凝り固まった韓国社会およびメディアとなっているのが特徴です。
 この本の内容そのものにもさまざまな問題がありますし、かつ、こうした本が高く評価されている日本社会の言説状況にも危機感をもっています。そこで本日は『和解のために』をめぐる日本での現象について考えてみたいと集まりました。
 まず、それぞれ、この本をどう読んだのかということから話をはじめます。

 

『和解のために』をめぐる政治状況

 

鄭栄桓 私が重視しているのはこの本をめぐる政治的状況です。現実の政治過程はひたすら右傾化が進んでいるのに、自称「リベラル」の人たちが日本の植民地支配・侵略戦争に関する「和解ショー」を主導している。この本に対する高評価はその一環だと思います。これが今後、東アジア共同体論などのなかで「和解」イベントとして消費されていく構造にたいして危機感をもっています。
 まず大事なことは、この本は「学問的な水準も高く、時事問題の解説としてもバランスがとれ」(大佛次郎論壇賞選考委員・入江昭コメント)ているから注目されているのではない、ということです。この本の事実誤認や粗雑さについては、金富子さんが「「慰安婦」問題と脱植民地主義――歴史修正主義的な「和解」への抵抗」という論考で詳細に指摘しています(『インパクション』一五八号、二〇〇七年七月)。的確で重要な批判なので、ぜひ読んでほしいと思います。
 ですから、この本の果たしているイデオロギー的な機能に注目すべきです。では、この本はどういうつくりになっているか。基本的には日本と韓国の歴史認識の差異を論じ、そのなかで「和解」の可能性を考えるという構成です。第一に気になるのは、「日本」の側の主体として登場するのは、政府や官僚、良心的知識人、右派など複数である一方、「韓国」側はほとんど一括りです。強いて言えば著者の朴裕河氏だけがその外側にいます。この単純化がまず問題です。
 次に、「戦後日本」の評価が異様に高い。戦後日本はアジアに謝罪もしてきたし、平和的にやってきたという評価です。これは朴裕河さんだけでなく、現在の日本の自称「リベラル」の論理の典型です。
 たとえば、『リベラルからの反撃――アジア・靖国・9条』(『論座』編集部編、朝日選書、二〇〇六年)の冒頭で『論座』の薬師寺編集長はこう述べている。
「戦争によって完全に崩壊したアジア諸国との外交関係を回復するため、戦後、日本政府は腰を低くして自らの行ないの非を認めて謝罪するとともに、各国の経済発展に最大限の貢献する外交を展開してきた。その結果なんとかアジア諸国との外交関係を再構築するとともに、安定的な外交関係を自らの発展につなげてきた。」だけど、それを小泉が壊した。しかもそんな日本の戦後の取り組みは中国、韓国に伝わらず、「誤解」されている。こういう話です。
 確認しておきますが、この戦後日本観は端的に言ってウソです。戦後の日本政府がやってきたことは、金にものを言わせて東南アジア・東アジア諸国を黙らせることだったことくらい、少し調べればわかります。自称「リベラル」知識人たちがかなり広範囲にこうした言説を展開しているという現状のなかで、この『和解のために』の評価がある、ということをしっかり考える必要があると思うので重大視しているわけです。

 

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非歴史的アプローチ

 

中西新太郎 『和解のために』を読んで感じたのは、「和解」という観念、関係のあり方が、どのような歴史的な状況のなかで、どのように、誰が語るのかをまずはっきりさせなければならないということです。
 「和解」というのは、加害と被害の関係をなんらかの意味で清算し、新しい関係をつくりだすということであるとすれば、加害の真相究明がどのようになされたのかが前提になければならない。被害というのは歴史的に覆い隠されるのが常態であって、それをどう明らかにしていくのか、その努力、営みが最初にある。その努力がどうなされたのかがあってはじめて、「和解」という観念が生まれてくるはずです。
 しかしこの本はいかに「和解」するかが出発にあるので、話の順序が逆転しています。いま「和解」できるはずだという前提があらかじめ設定されており、だから「和解」に関心が集中する。韓国や日本社会の事情や歴史的背景はそれぞれあるとは思いますが、日本社会の場合は、現時点で「和解」に焦点をあてた相互関係の認識の形が支配的になるのは望ましいし、歓迎される政治的背景があります。
 この本では「戦後日本」は大枠では反省的な道を歩んできているとしています。こうした評価自体に事実認識で大きな問題、誤認がありますが、その前に「戦後日本」というあいまいな主体として書かれていることが問題です。国家なのか?国家のあり方に照らせばとてもそうは言えない。同時に「日本良心派」というファクターがもちだされて、それとセットであるかのようにも読める。ここで面食らい、違和感をもつ。個人のレベルでいえば反省なり、歴史を問い直す人もいただろう。反省の必要がないという人もいたでしょう。では国家は?というと、それについてはきちんとした究明や評価はない。大枠でいうと、というまとめ方になって反省してきたと評価しているんです。
 これはまず不正確だし、正確かどうかにとどまらない問題をはらんでいます。戦後日本の国家のあり方、社会のトータルなあり方、アジア諸社会との関係でどうだったか、その自覚はどうだったのか、などについての検討がなく、大切なことがらがぬけています。
 一方、韓国という言い方もあいまいで、国家として述べるならば、たとえば朴正煕政権下の国家のあり方のようにすべきです。つまり、一つ一つおたがいの相互関係を規定しているようなファクターの問題をつかまえた上でないと議論できない問題なんです。それをぬきに、反省的であるかどうかなどとは簡単には言えないところで、たとえば一九六五年の日韓条約における国家間の関係や、それをとおした社会との関係は究明できるはずなのに、おおざっぱにくくられている。こういうくくり方がされるのは、「まず和解が可能であるべきだ」という焦点化が行なわれていることに起因すると思います。

 

 この本の基調をなしている日本と韓国にかんする分析は、ダブルスタンダードだと感じます。日本側の官僚、政府、右派に対しては、いわゆる「文学者」らしい分析がなされています。「新しい歴史教科書をつくる会」や右派言説にも、その来歴や内奥にまで踏み込んで、寄り添う必要がある、韓国社会はそれをしてこなかった、と語っています。
 一方、韓国社会の日本批判については、本質的な日本観、「反日ナショナリズム」に基づくものだとばっさり切り捨ててしまう。韓国社会についてある程度興味をもっている人にはあまりにも単純だということはすぐわかる。『前夜』十一号に、趙慶喜さんが親日派清算の動きをめぐるきわめて複雑な歴史的経緯と言説状況を分析された論考「脱植民地主義の契機としての親日清算l韓国「過去事」論争から日本を考える」があります(『前夜』十一号、二〇〇七年春号)。ここでも『和解のために』が批判的にふれられていて、趙慶喜さんは朴裕河氏のような非歴史的アプローチでは韓国社会の現状を取り逃がすんだと指摘されています。そのとおりだと思います。

 

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日本批判がむずかしいという現実

 

 私は、韓国はそんなに「反日」ではないと思う。これはだからいいんだ、ということではなくてその逆です。私自身は反日的立場でありたいと思っています。そういう視点から見ると、現実に韓国で生産されている議論に「反日」の要素は本当に少ない。東亜・朝鮮・中央など韓国の保守三紙をみても、日本はほとんど場合、模範国として登場します。日本の経済成長言説をなぞり、日本の老舗企業を訪ねるなんて企画はざらです。
 朴裕河氏は大衆文化の開放によって文化交流が進んだと評価しています(「ナショナリズム抑え、客観的に歴史検証を」『世界週報』二〇〇五年四月五日)。けれどむしろ事態は逆で、日本批判のむずかしさが深まったと思うんです。これは資本主義の問題です。インテリはある程度、日本批判ができるかもしれないが、一般的には韓国側は日本市場をつねに意識せざるをえなくなっている。メジャーな人間がポピュラーなレベルで日本批判を言うのはむずかしくなっていると言えます。たとえば『独島』という映画をつくる計画があっても、役者も配給もつかなかったりする。こうしたことは現状認識の前提として確認しておくべきなのではないでしょうか。韓国社会では日本に対する評価はそう低くなく、それこそが問題です。

 

中西 この本では日本は戦前と違うとされています。たしかに、戦前と同じような形で日本の戦後ナショナリズムがあるわけではありませんが、戦前と違うからそんなに心配いらない、という話ではない。高度経済成長以降の日本のナショナルな言説のあり方は、必ずしもナショナリズムの明示的言葉をともなっているわけではない。にもかかわらず、経済的な不平等な関係の下でさまざまな抑圧的作用をもつナショナリズムの戦後類型が存在してきた。そこはほとんど意識されていません。日本の高度成長はどうしても評価してしまう、という関係に韓国の政権が置かれてきた以上、「反日ナショナリズム」と言われる現象は特定のトピックに限定される。そうした現実を深くとらえての批判になっていないのが問題です。

 

 韓国の保守言説は、実は日本に親和的なんですよね。さらに、文化について言えば、朴裕河氏の議論には消費文化やグローバリゼーションについて批判的な部分がほぼありません。韓国社会で批判が向けられるのは「反日」ということだけで、大韓民国という国家の来歴や、軍事政権、日韓条約の問題点などにはふれない。
 朴裕河氏の前著『反日ナショナリズムを超えて――韓国人の反日感情を読み解く』(安宇植訳、河出書房新社、二〇〇五年)にいたってはFTA的なものに反対する動きを民族主義的偏狭としてくくっています。

 

中西 軍事政権の問題はまるで出てこないですね。

 

 この本や、『反日ナショナリズムを超えて』はいずれも民主化以降の「民族主義」なるものを批判の念頭においている。たとえば、盧武絃政権期、韓国の保守派がターゲットにしたことの一つは、過去清算問題(*註)です。ようやく国家の課題として認められるに至った過去清算の一連の法制化に対して、韓国社会に分断を持ち込んだとして批判している。こういうなかで「和解」というキーワードが持ち出され、過去清算の徹底を阻害する方向に機能している。それと、過去清算を徹底していけば、どうしても日韓条約にぶつからざるを得ないわけですが。

 

中西 「日韓条約を結んだのは自分たちの政府ではないか」と自分たちに返ってくるように語る。日韓条約締結当時の日韓の関係のあり方とか、日本政府が何を考えて結んだのかとか、戦後の朝鮮半島との関係で歴史的につかまえなおすような視点は出てきません。

 

 日韓条約のときの韓国社会の状況をみていませんよね。反対運動を独裁政権がつぶしながら強行していったことも出てきませんし、日韓条約を韓国国民は認めたじゃないか、という話になる。民衆と政権の関係、日本との関係、植民地主義の問題などが抜けています。日本と韓国がそれぞれまったく別個に存在しているかのような、きわめて表面的な一国史的比較に意味があるんでしょうか。

 

 一国史的な比較論は朴裕河氏の歴史認識にくみこまれています。たとえば、「慰安婦」についての章で、「……「戦犯」という言葉が、国際的戦争規定に定めた最小限の規則する踏みにじった行為をおこなった者という意味であるなら、……なによりも朝鮮戦争当時慰安隊までつくり運営したという韓国も(金貴玉の研究)、同じ言葉で糾弾されることを覚悟しなければならないだろう。」(八三頁)と書いています。確かに金貴玉さんは朝鮮戦争期の韓国軍慰安所の存在を知り、二〇〇〇年頃にそれを公表して韓国社会に衝撃を与えました(金貴玉「韓国戦争と女性l軍慰安婦と慰安所を中心に」徐勝『東アジアの冷戦と国家テロリズム』御茶の水書房、二〇〇四年)。
 ただ、金さんが言っているのは、日本にもあったけど韓国にもあった、という単純な話ではありません。なぜ朝鮮戦争下で慰安所がつくられたのかと言えば、日本軍から引続いて権力の座に居座った将校たちが、自分たちの経験をもとにつくりだしたのです。この連続性をみなければならないというのが、金貴玉さんの研究の最大の趣旨です。日本軍国主義のなかに朝鮮人がくみこまれて、そのまま戦後に韓国ができ、朝鮮戦争を遂行していくという構造がある。まさに継続した植民地主義のなかでみなければならない。

 

 朴裕河氏は、事態を単純化せず、複雑なままみると言っていますが、被害と加害の関係にかんしては、被害の側(韓国)にも加害があったとしか言わず、その関係性はみないわけです。解放後も植民地主義が継続し、被害と加害が折り重なっていくなかで、どのような暴力が呼び寄せられてしまうのか、という複雑な問題を、単純化し相対化していく方向にもっていってしまうのです。

 

 それは結局、韓国国家を免貴する方向になると思います。一見ナショナリズム批判をしているように見えますが。独裁政権のナショナリズムを批判する視点を失う。

 

中西 日韓条約のときでも、朴政権にたいして、日本と同じように経済発展をするためにと独裁政権の足下をみながら、かつ日本政府の責任を免れながら、しかも借款、資金援助を行なうことによって韓国社会の成長のあり方を規定するという関係をつくりだした。植民地時代の満州の計画などを引き継いだところにある。
 植民地主義というのはそういう歴史的な関係を含んでいるわけで、それが戦後まで続くというのはいかに植民地主義的関係が解除されていないかを示している。だから戦前に戻りませんよと言ったところで、この関係が清算されたり解除されることはない。どちらの社会でも右派がお前たちこそやっているじゃないかと批判しあうことにしか役立たない。鄭さんの指摘したように、引用されている研究が、ずらされて利用されている点はとくに危倶します。

 

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日本の知識人の問題

 

 この本を評価している日本の知識人の問題を考えていきたいと思います。たとえば大佛次郎賞の選考委員らのコメントが朝日新聞(二〇〇七年十二月十六日付)に載っています。入江昭氏(ハーバード大名誉教授)は「誤解・無知に正面から」とりくんだ「まれに見る優秀作」と絶賛しています。

 

 佐々木毅氏(学習院大教授)は届両に韓国側の状況については事実として教えられることが少なくない」としています。韓国で大学教員をしている韓国人が書いた、韓国社会を批判している本だから韓国社会をきちんと映しとっているだろう、と韓国を知らない知識人が受け容れている。
 また、『反日ナショナリズムを超えて』と『和解のために』のそれぞれの末尾に載せられた小森陽一氏と上野千鶴子氏の文章には、共通している部分があります。それは、韓国のナショナリズムが日本のナショナリズムのあり方と酷似しているのだ、という指摘です。まったく別個の二つのナショナリズムがあって、それを超えましょうということです。その関係のあり方についてはふれられていない。
 さらに、『和解のために』の第二章「慰安婦」で朴裕河氏は大沼保昭氏(東京大学教授)を引きながら、「女性のためのアジア平和国民基金」(以下、国民基金)を高く評価し、その意図を理解しなかった韓国挺身隊問題対策協議会(以下、挺対協)を徹底批判していますが、その大沼氏が今度は「朴裕河が込めた思いとは」と題して、「日本との関係で自己を対象化できるようになった韓国の社会的成熟を物語る」「被害者の立場に甘え続けるのでなく、韓国民自身の日本への偏見や韓国社会の家父長主義をとりあげ、その克服を韓国民に呼びかけている」と『和解のために』を絶賛している(朝日新聞二〇〇八年一月三十一日付)。同じ文章で大沼氏は「日本は、源氏物語をはじめとする豊かな文化を育み、第二次大戦の廃嘘から豊かな社会を作り上げ、民主主義と平和を実践し、途上国に巨額の援助を与え、途上国の称賛の的となった国である。」と歴史観を披露しています。

 

中西 「誤解・無知に正面から」というコメントですが、たとえば盧武鉱政権下ではじまった真実究明とか過去清算などについてあまりにも無知であり、いかに知らずにすませてきたのかが非常にはっきりわかりますね。何が問題になっているのか。それが日本の戦後のあり方とどうかかわるのかについてまともな研究がなかったにもかかわらず、いまさらそれを知らせてくれてありがとう、という話でみていくというこの醜悪さ。

 

 韓国社会の過去清算の取り組みについて、日本社会はすごく冷笑的でした。

 

 それどころか過去清算に対して日本外務省は協力するどころか、ずっと妨害していた。過去事整理委員会の金東椿さんが注意を促していたことです。

中西 日本側の知識人というならば、みずからがそれを明らかにして、そのうえでこの本をどう評価するのかを言わなければならないと思います。

 

 大沼氏は護憲的改憲論を引っ張った一人ですが、前述した『リベラルからの反撃』のなかの対談でこんなことを述べています。自分は八○年代までは九条護憲だったが、湾岸戦争でまずいと思った、と。「改葱論の人たちは、平和憲法という制約があるから日本は軍事的な貢献ができないと言ったけれども、私はそうではなく戦争資任とまともに向かい合ってこなかった、そのことが最大の制約なのだと主張しました」。つまり、軍事的な貢献をするには戦争貴任を向き合う必要があるという議論です。攻めるためには謝る必要があると。
 私は最近、ユルゲン・エルゼサーの『敗戦国ドイツの実像』(木戸衛一訳、昭和堂、二〇〇五年)という本で知ったのですが、ドイツが国外派兵に踏み込む際、もう充分ドイツは過去を償ったのだから、むしろ積極的な役割を果たさねば、という議論が現われてくるんですね。しかも、たとえば「ミロシェビッチはヒトラーだ」みたいなレトリックを使いながら、それがあたかもナチスの過去の清算の延長線上にでもあるかのように強弁していく。
 大沼氏はこれをやりたかったのではないか。だけど日本はまったく反省していないのでそれができない。国民基金をやってみたけど、まったく認められない。それで憤慨している。
 この辺りの九○年代以降の「リベラル」とか左派の転向と変質については、詳細に検討する必要があります。村山政権論ですね。今日は主題ではありませんが、この点については、金光翔さんの「〈佐藤優現象〉批判」(『インパクション』一六○号、二〇〇七年十一月)や、ご自身のブログ(http://watashinim.exblog.jp/)でかなり広いパースペクティブから議論しています。広く読まれるべきだと思います。

 

中西 戦争責任を解決しないと前に進めないというのはまさに日本の財界の認識ですよね。改憲と戦争責任の処理は必要だと。なぜか。そういう「処理」なくしてアジアでのプレゼンスを実現することができないという明確な認識をもっているからです。そこで戦争貴任について、日本の体制秩序が動揺しない範囲で処理したい。ここに「和解」が出てくるのはフィットする。大沼氏は支配的状況認識にフィットしているんですね。

 

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批判を封じ込める水路

 

 日本を批判する朝鮮人はナショナリストである、というレトリックがありますよね。

 

 批判の封殺ではなくて、批判があってもその性格をあらかじめ規定してしまう水路が決まっている、という感じでしょうか。
 朝日新聞の大佛次郎論壇賞の記事でも、「本賞受賞で韓国内で一部反発も起こるかも知れないが、著者には想定内のことであろう。」(米本昌平)とあり、反発があることが逆に売りになっている。「日韓両国で、激しい論争を引き起こした」「左派・リベラル知識人の一部から、「慰安婦」問題などの主張が保守派に親和的だとやり玉に挙げられた。」と朝日新聞記者が書いている。日本社会におけるきちんとした批判はいまのところ金富子さんのものしかないと思うんですが、凝り固まった批判というようにあらかじめ批判のあり方が形作られている、というわけです。朝日新聞だけの問題ではなくて、あらかじめ批判をはじき出すというモードがあるということを実感しましたね。

 

岡本 『和解のために』の解説でも上野千鶴子氏が司彼女のこみいった議論を聞きながら、いらいらして「おまえはいったいどちら側なんだ?」と詰め寄りたい気分になった読者がいるとすれば、そのひとをナショナリストと呼ぶことにしよう。」と書いています。

 

 封殺するというよりは決めつけるモードができていますよね。自分たちは冷静に高みにたっていて、批判する者は感情的で硬直した議論をわめきたてる、という図ができている。
 また、運動観もおかしいと思いました。挺対協批判の部分で、国民基金のお金も大事だとした人たちの側の声だけを拾ってきて、そうした声を封殺したと批判していく。ここには、ともに運動をつくっていくという視点がない。対象となる人と運動する側が分断されていて、被害者の本当の声を一方的に封殺したものとして、運動する側を規定する。
 被害者を力づけながら社会的に発言することをサポートし、一緒に苦労しながら作り上げていくなかから、日本軍「慰安婦」制度を根本から問う運動ができてきたのに、それを無視してしまって運動団体の側が被害者に刷り込んだ、その声を封殺したという話にしかならない。運動する側も当事者も、それぞれが動いていくなかで運動が形成されていくというごく単純な事実をまったく見ていないことについては、金富子さんが指摘している通りです。

 

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国家的責任を問う意味

 

 問題は一通り出たと思いますが、大沼保昭氏を一つのバックボーンにする「法的責任より道義的責任のほうが深く広いんだ」という議論。もう一つは日本の法的責任を求めていくものはナショナリズムだという決めつけ。これがからみあっている。

 

 道義的責任のほうが重要なんだと強調されるわけですけれど、ではなぜ法的責任をとれないのか。両方とればいいだけで、法的責任をとらない理由にはなりえないですよね。法的責任に関しては、つねに「仕方ない」という話になっている。負けるんだからしょうがないと。国民基金のときも同じです。

 

中西 法的貴任と道義的責任という二つの話になっていますが、個人のレベルではいくらでもあるかもしれない、けれども植民地主義や加害という問題は社会的な関係です。責任の問題はいったい何なのかということをあまりに単純化している。唖然とせざるを得ない。
 国家責任を問うべき固有の次元、歴史的にも揺るがせにできない課題があるから抵抗しているのであって、公的、国家的責任を問うことがいかに大きな意味をもつかを前提にした議論は外せない。それに、道義的責任が本当に深いと言うなら、道義的責任を簡単に果たしてしまおうというのもおかしな話ですよね。

 

 だいたい、道義的責任だって本当に果たしているのか疑問です。

 

 国民基金の「償い金」を受けとった被害者に渡された、首相の手紙への評価が非常に高いのもいまひとつ意味がわかりません。金富子さんが言われるように、首相の手紙は被害者全員に渡されたのではなく、「償い金」を受けとった方だけに渡されたもので、それこそ被害者を分断するものであったわけですから。

 

 九〇年代に山口泉氏が『「新しい中世」がやってきた!』(岩波書店、一九九四年)や『テレビと戦う』(日本エディタースクール出版部、一九九五年)の中で、示唆的なことを言っています。日本軍の一兵卒だった人が、「ナヌムの家」(韓国の日本軍性奴隷性被害者の女性たちが暮らす共同の家)を訪ねて謝りに行ったことを山口泉氏が猛烈に批判した。つまり、謝罪とか賦罪というのは義務の問題ではなくて、権利の問題に属するんだ、と。彼にはあそこに謝りにいく権利はない、と。だけど、来てしまったから被害者の側は、その場ではもういいよとしか言いようがない。彼があそこに行くことでもう一回おとしめることになるという議論です。これに近いところがある。
 国民基金にしても、自分たちの都合ばかりしか言っていない。問題をうやむやにして「お詫び」する権利があるのかという問いが完全に欠けています。無権利なことをやっているかもしれないのに、いや自分らはがんばったんだと自賛する。村山政権の体制に参与して、いくばくかの改良を自分たちがしたんだ、戦後日本の中では画期的なことなんだと。なのにメディアが誤って伝えて韓国の人たちは誤解してきた。しかも当事者たちを無視して、挺対協なる運動団体が邪魔をしてきた、という物語になっている。まさに当事者を無視した「和解ショー」。被害を受けた人たちが尊厳を回復する、エンパワーされるのとはまったく別の政治的「和解ショー」をどうやって演出するのかということに知恵を絞りあっている。
 だいたい『論座』や朝日新聞などが「リベラル」なんて自称していますが、結局これは「私は自由主義者だ」ということじゃなくて、私は「左翼ではない」「反日朝鮮人じゃない」「頑迷固随な人間じゃない」と言っているだけですよね。騒いでいる人や凝り固まった人や頑固な人や、左翼とか朝鮮人とかじやない私。右派たちからの問いにもちゃんと応えられるリベラル。右派にはすごい甘いわけですよ。

 

中西 いわゆる左翼を外すというところにイデオロギーとしては正確に照準をあわしている。それが重要だと思います。「リベラル」という言葉の遣い方をみても、そういう舞台がつくられていることがはっきりしている。左翼あるいは左派が問題にしているような事柄を、日本の社会では扱わない、あるいは扱わせないということが機能としてできている。こうした舞台にすごくフィットして、しかも右派ではない形で朴裕河氏のような韓国の人が出てくる。そういう相互関係がつくられています。

 

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「和解」は可能なのか?

 

 そのとおりですね。冒頭で中西さんが話されたことですが、「和解」が可能であるということが前提になっているのが決定的に問題です。和解して東アジアの共通の歴史認識を作ることが、当然の前提になっている。別にそんなのいらないんじゃないか、という問いはない。
 この点は本当に異論派が少ないんです。率先して戦争責任・戦後責任問題を牽引してきた歴史家の荒井信一さんも、「地域的アイデンティティ」とか東アジアのアイデンティティと述べている(『歴史和解は可能かl東アジアでの対話を求めて』岩波書店など)。結局そうなると政治的な「和解ショー」の枠組みに引きずりこまれてしまうのではないか。

 

中西 今さら「和解」などできるのか、と言ってはいけないのか?そういう根拠はないのか確かめたこともないわけですよね。「和解」などできるのかという問いが当然あっていい。しかしそこの部分を議論させない。それは「ナショナリズム」だよと言う。そういう形でナショナリズムを使っていく。

 

 「和解」とはどういう状態なのか。それがまったくわからない。その風景が描かれることなく、いがみあうよりは仲良くしたほうがいいといったような、そういう俗流「和解」でしかないのではないでしょうか。

 

 象徴的なのが、大沼氏が国民基金の取り組みの中で、韓国の人がお金を受け取らなかったことを「失敗」だと言っていることです。お金を渡して全部受け取ることが成功という「和解」観。しかし、お金を受け取らないという選択は当然あることですよね。一世紀以上支配して、半世紀以上放置したわけで、たかだか一回、しかも暖昧に謝ったからといって、はいそうですか、となるわけはないのです。
 これは国家に補償という形式であっても可能性としてありうるし、謝罪する側はそのくらい想定しなければいけない。日本の政治事情のなかで、社会党が政権とれるのは今ぐらいだから今受け取ってくれなきゃ困ると強弁して、みんな受け取ってくれて終わり.成功という未来が展望されている。それができなかったからと憤っている。拒絶できない「和解」、強要される「和解」ってなんなのか。

 

 大沼氏と朴裕河氏のもたれあいの議論には、他者がいない感じがします。こんなにがんばったんだから、と強調する大沼氏に対して、がんばったって言ってあげる朴裕河氏、という構図です。一点紹介しておきたいのですが、大沼氏と朴裕河氏の議論では、日本の国民基金側の広報不足などもあって正確な情報が韓国の側、挺対協の側に届かず、それで挺対協の側も誤解に基づく思い込みで国民基金をメッタ切りにしてダメになったとありますが、それは事実と異なっていると思います。
 当時、国民基金と挺対協を中心とした韓国の知識人の側との間で往復書簡があって、わりと誠実に応答しているんです(『新東亜』『世界』共同企画・日韓知識人往復書簡日本軍『慰安婦』問題をどう考えるか」、『世界』一九九五年十一月)。一九九五年の出発の段階で、「なぜ『国民基金』を呼びかけるのか」と往信を和田春樹氏ら中心メンバーが出しています。いまやらないと今後は絶対無理だからこれしかできないという話ですが(笑)。その意図や状況認識を受けとめつつも、やはり基金は受入れられないというのが韓国の側からの返信です。副題に「韓日間に横たわる深き深遠をみつつ」とあり、事情はよくわかると、しかしそうであるがゆえにやはり原則を守らないとダメなんだという話をしている。『世界』に載っているので調べればすぐ出てくるはずですが、朴裕河氏、大沼氏のいずれの著書にも出てきません。参考文献にも引用されていない。これだけ読んでも、挺対協の硬直な態度とか無視というふうにとらえるのはちょっと無理だと思います。

 

 しかもこの本が出ている「いま」という時代は、九○年代のあの総転向の結果として日本がさらに右傾化したことが明らかになっているのです。九○年代がんばったけど、小泉が出てきてオジャンになった、というのではなくて、あの時に総転向が響いているんです。なのに自己検証なく私たちはがんばったと自己弁明だけしている。

 

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ナショナリズムの今日的特徴

 

中西 日韓条約の時、比輸的ですが、半分ぶん殴って経済力で締結したわけですよね。戦後の日本国家がもっている国益と力を明確に意識して、カードとしてそれらを使用した。形は違うけど今も同じような状況があって、九○年代半ば以降、大衆文化開放をとおして関係を結んで、そうした関係と異なる回路は「反日」という形で脇に追いやっていく政治状況をつくっている。麻生太郎氏が象徴的なように、ソフトパワーを使うことは権力の行使だから、つまり文化を政治的な手段としていかに帝国主義的に使用できるかという話なんです。
 その点に日本のリーダーたちが完全に自覚的になってきている。ソフトパワーがものを言う関係を前提にして「お互いに反発し合わず話ができる格好でやりましょう」という舞台装置がリベラルと言われている人々のなかで大枠で作り上げられている。
 リベラルと称される文化人の多くは、もちろん、政治権力のリーダーが活用しようとするソフトパワーなどとは無関係だと言うにちがいありません。しかし、そういう把握自身がすでに、九○年代にはっきり形を現してきた文化政治のリアリティに無自覚だと思います。ファナティックで時代錯誤のバックラッシュにたいし反対するリベラルという構図に自足して、「日本は……」と無自覚に語る国益を前提にした現実主義に囚われていることに気づかない。
 「ナショナリズム」の今日におけるありようはもちろん複雑ですけれども、ナショナリズム現象のここはおかしいと具体的に研究し分析する話と、「反日ナショナリズム」というレッテル貼りとは別です。「反日ナショナリズム」というのは言葉自体もおかしいわけですからね。日本社会のこの事柄に対して批判するという「反日」は、ナショナリズムとは無関係です。それなのに「ナショナリズム」イメージに全部組み入れて相互関係をみていく社会意識ができあがってしまっている。きわめて帝国主義的ですよね。
 このような新しい枠組みなり思考方法なりが育ってきている段階だと思います。しかもそれが大衆的なしベルで成立しつつある。ですから状況はもっと悪くなっていると言えます。

 

 日韓条約ともかかわりますが、現在韓国の保守論壇で出ているナショナリズム批判は、大韓民国肯定論だということを確認しておく必要があります。そんな馬鹿なと思うかもしれませんが、本当です。
 つまり、ここで批判されているナショナリズムなるものは、韓国が貧しいのは従属的な地位、とりわけ対米関係に原因があり、それを脱して平和的に南北統一し、一つの民族経済圏を作り上げるという一つの構想です。だから保守系のナショナリズム批判は、統一に対して懐疑的になる一方で、朴正煕独裁政権に好意的になる。解放後韓国の歩んだ道が結局は正しかったのだ、という保守的自己肯定の意識なのです。

 

中西 ナショナルな感情ですよね。日本で高度成長から七○年代、自分はナショナリズムなんて言われてもわからないよという形で、経済成長の延長で海外にさまざまな形で進出していく中でつくられた意識によく似ている。それはナショナリズムじゃないという形で保障されている。
 グローバル世界でお互いに過去から解放された関係、未来志向でつきあっていきましょうという姿勢です。それがお互いの国益のためでしょうという判断を含んでいるこうした認識は、ナショナリズムの今日に特徴的あり方ではないか。あるいは、グローバル国家を志向する新たな国家主義と言うべきかもしれない。
 国家主義のそうした連携を実質上推進してゆく言説が、ナショナリズムを超えた新しい道として受け入れられるのはたいへん倒錯した状況と言わなければなりません。そういう、いわばグローバル化イデオロギーが当たり前のようになった配置関係をつかまないと、私たちは心が広いけれど彼らは偏狭だという国民意識に、見事にはまりこんでしまうのではないか。

 

 自分たちはナショナリズムにとらわれてはいない、もう解放された人間なんだ、と。

 

 FTAを締結してグローバル化にのっていくのがナショナリズムの枠を超えることだという議論はいくらでもみつけられます。

 

 現代のイデオロギーですね。

 

 最後に、これは本当に強調したい点ですが、こうした一連の「和解ショー」言説は、必ずや今後の朝鮮民主主義人民共和国と日本の国交正常化交渉に重大な悪影響を及ぼします。現に、二〇〇二年の「朝・日平域宣言」は、経済協力方式での過去清算回避が明記されていますが、これに対して原則的に批判する日本の人間はほとんど存在しません。共和国は最近少し論調を変えているようですが、いずれにしても日本側からこれに対する批判論が提起されない限り、また日韓条約と同じことをくり返すのです。
 かたわらで朝鮮に制裁を続け、日本の加害貨任を認めるものとはほど遠い平壊宣言を黙認しておいて、その一方で神妙な顔つきで「和解」を語る。これを欺購と言わずして何と言うのでしょうか。

 

 『和解のために』の議論がもつさまざまな問題を見ることから、それを軸にして現代の言説状況の深刻な問題点などについても話ができたと思います。今日はありがとうございました。

 

(座談会は二〇〇八年四月二十二日、高和政、鄭栄桓、中西新太郎、岡本有佳他三名が参加して行なった。)

 

*註 盧武鉉大統領の二〇〇四年八月十五日特別宣言で「包括的な過去澗算」を提案したことを出発点に、国家暴力の真相を追究するなど過去潤算が国家の課題とされ、一連の法が制定された。『前夜』八号収録の金東柱インタビュー「民衆と社会変革への省察――韓国・過去清算の現場から」を参照していただきたい。

 

※座談会参加者(当時)

高和政(コウ・ファジョン) 中央大学付属高校。論考「マイケル・ジャクソンという矛盾」『前夜』12号等。1975年生まれ。

鄭栄桓(チョン・ヨンファン) 在日朝鮮人運動史。論文「『解放』直後在日朝鮮人運動と参政権問題」。論考「戦時下の神戸1948年」『前夜』3号。1980年生まれ。

中西慎太郎 社会哲学。現代日本社会論。横浜市立大学教員。『若者たちに何が起こっているのか』『<生きにくさ>の根はどこにあるのか』等。1948年生まれ。

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