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『帝国の慰安婦』は「誰のための和解」を叫ぶのか(イム・ギョンファ)

朴裕河「帝国の慰安婦」

 


* 2016年7月14日 「教授新聞」に載せられた書評<朴裕河は被害者の内面を「発見」したのか?>(ハングル、http://www.kyosu.net/news/articleView.html?idxno=32745)を若干変更したものです。

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去る7月に朴裕河の『帝国の慰安婦』に対する全面的な批判書である『誰のための「和解」か:『帝国の慰安婦』の反歴史性』が「青い歴史」から出版され、再び『帝国の慰安婦』事態をめぐる論争が熱くなった。「ナヌムの家」の「慰安婦」被害者らが2年前の2014年6月に日本軍「慰安婦」を日本軍の「同志」であり、戦争の「協力者」として表現した『帝国の慰安婦』の記述が名誉毀損に該当するとして民事・刑事上の訴訟を提起し本格化したこの論争で、『誰のための「和解」か』の出版が持つ意味について簡単に論じたい。

 

朴裕河の『帝国の慰安婦』は、日韓の間で「慰安婦」問題が解決されず、紛争の中心にあるのは「慰安婦」が誰であるかについての理解が不足していたからだという問題意識から書かれた本である。「日本軍に強制連行された無垢な朝鮮人少女たち」という「慰安婦」イメージは支援団体などによって歪曲されたもので、被害者の記憶そのものではないというのだ。その歪曲されたイメージを克服する代わりに、朴裕河が提示したのが『帝国の慰安婦』論である。朝鮮人「慰安婦」は、日本軍との関係で日本人「慰安婦」と同じ立場にあり、戦争遂行に協力する「愛国」的存在として日本軍と「同志関係」にあり、自らも「同志意識」を持っていたと主張する。さらに解放後は、自身の協力を他者化して、完全な被害者だと想像しようとする「植民地の後遺症」のために、被害者自らが『帝国の慰安婦』だった記憶を隠蔽したという。これらの批判は、「慰安婦」問題の解決のための運動が日本の敵対のみ表象する慰安婦イメージを強調し、国民基金と和解して日本を許した慰安婦を排除したという主張につながる。すなわち、『帝国の慰安婦』論では、「日本軍に強制連行された無垢な朝鮮人少女たち」は敵対(不和)の表象で、帝国の慰安婦は和解の表象で機能しているのである。

 

これに対して韓国の世論は、学問と表現の自由を擁護する立場から起訴自体に反対する意見が圧倒的だった。しかし、本の内容を巡っては、「慰安婦」被害者の名誉を毀損するか、または「慰安婦」問題の解決のための現実的な方策であるかをめぐって、反対派と擁護派が論戦を繰り広げ深刻な混乱状態がもたらされた。 『帝国の慰安婦』への批判がほとんどなく、擁護派が大多数である日本の状況とは対照的ではあるが、韓国での議論も主に解釈をめぐる舌戦にとどまっており、しっかりとした検証作業に裏付けられたものではなかった。著者の朴裕河も、反対派の主張に対して「誤読」や「歪曲」、「解釈の違い」で退けていった。


このようなメディア状況の中で、『誰のための「和解」か』の著者である在日同胞の歴史学者・鄭栄桓は、日本軍「慰安婦」問題を理解するために必要とされる多方面に豊富な知識をもとに、実証的かつ徹底的に 『帝国の慰安婦』の検証作業を行った。これは、韓国と日本で出版された『帝国の慰安婦』のテキストを比較分析し、テキストに引用された出典をすべて検証し、先行研究を参照し著書の研究史としての位置を見定め、テキストの論旨を確定していく非常に困難な作業であった。

 

上記作業を通して鄭栄桓が明らかにしたのはまず、『帝国の慰安婦』にある多数の誤謬である。資料解釈の初歩的な誤謬だけでなく、証言の取捨選択と恣意的な解釈、相互に矛盾した主張の共存、論理的飛躍、先行研究の主張の歪曲など、実に多岐にわたっている。しかし鄭栄桓の作業はこれらの検証にとどまらない。彼は資料の調査や読解、論証をすべて犠牲にしてまで著者が表明しようとした政治的メッセージが何かを重点的に明らかにした。つまり適切な検証手続きなく、日本社会で保守とリベラルの対立の構図を超えて、この著書がこのように絶賛されたのには、朴裕河が提示した『帝国の慰安婦』論が日本社会が望むイメージと合致した点を挙げる。

 

鄭栄桓は、朴の主張が資料の誤読、証言の恣意的解釈、研究成果の誤った理解などにより導出された憶測に過ぎないことを明確にした。さらに「第3の声」などと命名して、まるで「慰安婦」被害者の声を聞き「慰安婦」イメージの新たな認識や新しい解決策を提示したように包装された『帝国の慰安婦』論は、1980年代以前に「兵士たちの声」で構築された「愛」「慰安」「運命」「愛国」「同志」などのキーワードによる「慰安婦」認識への回帰である。このような「兵士たちの声」は、1990年代以降にアジアの被害女性たちの証言が相次ぎ、構造的な暴力システムとしての「慰安婦」制度が究明され根元から覆された。朴裕河は、これら被害者の声は背後の支援団体によって歪曲された声であるとして、彼らの真の「声」ではないとしながら、被害者の主体性と自発性を尊重するような語法を駆使する。しかし、実際は「兵士たちの声」を復権させる試みに過ぎなかったということを明らかにしたのである。

 

「慰安婦」問題に対する日本の責任についても、『帝国の慰安婦』が試みたのは、植民地支配の責任を問うたことでは決してなかったと鄭栄桓は言う。朴裕河は大日本帝国の論理の範囲内で「慰安婦」問題を再解釈しようとした。だから、日本人「慰安婦」と「愛国」的動機の共有、兵士との「同志関係」などを強調して、未成年者の徴集に代表される「慰安婦」制度の植民地主義的な性格を努めて否定しようとしたのである。そういう意味では朴裕河は、むしろ日本の「帝国意識」に訴え、朝鮮を「統治」した者として、以前に「同志」であった(旧)植民地「臣民」を慰労しなければならないと訴えていると読み取った。


それにもかかわらず、『帝国の慰安婦』が日本社会で絶賛されたのには、「二つの歴史修正主義」が作用したというのが、この本の核心的な主張だ。日本軍「慰安婦」問題が提起されたのは、大日本帝国の責任と同時に「戦後日本」の責任でもあった。 「慰安婦」問題は、冷戦体制の中でアジアの加害責任に直面せずに過ごすことができた戦後日本の歴史を問い直す象徴的な出来事であったのだ。しかし朴裕河は、日本の「戦後史」を戦争責任、植民地支配の責任に向き合い反省してきた歴史だと描いている。したがって『帝国の慰安婦』論とは、「日本軍無罪論」による「大日本帝国」肯定願望と、「戦後日本」の肯定願望という「二つの歴史修正主義」にとらわれた人々の欲望が生んだ産物なのである。鄭栄桓は、日本社会の内部にある「二つの歴史修正主義」を根本的に問い直す作業こそ『帝国の慰安婦』事態の本質だと言う。


鄭栄桓のこのような分析は、これまでの『帝国の慰安婦』論争に重要な指針を提供するものだ。何よりも鄭栄桓は、「慰安婦」問題の解決のための運動に対する朴裕河の解体議論が被害者にもたらす致命的な危険性を示した。朴裕河は、民族や民衆、階級などの「巨大な議論」だけでなく、女性の人権運動のような運動の言説も解体しながら、運動勢力の「人質」にされた「個人」の解放を主張し、まるで被害者の主体性(agency)を重視するような主張をする。これにより、慰安婦制度自体は犯罪でなく、法的責任を問うことができないと主張する朴裕河が描く慰安婦とは、貧しい女性たちが「移動」により経済力を備え、家父長制的共同体の拘束から解放されて再主体化された個人である。したがって反日民族主義や女性の人権意識に基づいた「慰安婦」問題の解決の動きに利用されている「慰安婦」を「運動から解放」させ、欲望を持つ個人に戻さなければならないという。これらの主張は、資本主義社会における個人に対する幻想だけでなく、運動から個人を切り離すことにより加害者(強者)の責任を希釈させ、権力に対する社会的抵抗の求心点を解体しようとする著者の政治的欲望の発露に過ぎない。最終的には朴裕河が運動を批判するのは、運動から排除されたサバルタンの声に耳を傾けるためではなく、加害者の不法に目を閉じ、被害者の連帯運動を解体するだけだ。

 

鄭栄桓が『帝国の慰安婦』から算出した「二つの歴史修正主義」も、朴裕河が駆使したポスト・コロニアリズム分析の致命的な欠陥を露出させる。朴裕河は、植民地主義の遺産の拒否と持続という二つの属性を内包するポスト・コロニアリズムをひたすら「協力」の記憶を隠蔽しようとする被害者たちの「植民地の後遺症」詮索に活用する。そのため、帝国主義戦争の暴力の犠牲者を根拠なく協力者(加害者)であると考えている誤謬を犯している一方で、それと同じ大きさで敗戦後も持続する日本の帝国主義に目を瞑る。これは、ポスト・コロニアリズムが加害者/帝国主義の合理化に悪用されることを教えてくれる事例である。


朴裕河の解体議論の極地を示すのは、上記の批判に対して安易に記す「解釈の違い」、つまり言語論的転回論である。 『「言語論的転回」後の歴史に「事実」も「真実」もない。ただ特定の視角から再構成された「現実」だけがある』との、ポストモダニズムが生んだこの見解は、事実も真実も否定したなまま、特定の視野の個々の主体者の現実の絶え間ない亀裂をもたらした。そして今、事実や真実の否定は、まさに被害者の記憶の忘却であり、意思疎通の拒否に示されている。しかし『誰のための「和解」か』が、韓日間の歴史認識問題で最も重要なことは、事実に基づき日韓の国家間の理解を超えて、より普遍的な歴史認識に到達しようとする誠実さと責任感であることを悟らせてくれた。

 

[出典] ‘제국의 위안부’는 ‘누구를 위한 화해’를 외치는가 

 http://blog.naver.com/limkyounghwa/220779130070

   

忘却のための「和解」―『帝国の慰安婦』と日本の責任

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