「現在」を問うということ/藤井たけし

f:id:eastasianpeace:20140704130805j:plain

ハンギョレOpinionより翻訳)
最近話題になっている<帝国の慰安婦>を今になって読んでみた。いくつかの印象を受けたが、最も問題に感じられたのは、「運動」を眺める朴氏の視点であった。 「日本の支援の動き」が「政治化」され、「帝国日本」だけではなく、「現代日本」まで批判するようになったと指摘しながら、著者は次のように言う。 『慰安婦問題の解決が難しかったのは、まさにそのように、運動が「現在」を求める運動がされたからでもある。』壁にぶつかった感じだった。

私は1990年代の日本では「慰安婦問題」を解決するための運動に参加するようになった理由がまさにそれが現在を問う運動だと思ったからだ。もちろん、「日本軍慰安婦」という存在自体は、過去に属しているが、問題としての「慰安婦問題」は、現在の問題だ。そして、現在という時間の中で私もこの問題を知った。つまり、私は現在という時間をパラメータとして慰安婦問題に出会ったのだ。著者が過去と現在を分離する理由は、帝国日本と戦後日本の断絶を強調する立場から始まったと思われるが、この問題を過去の問題としてのみ扱うことになる時、この媒体としての現在、言い換えたら「私たち」を可能にする現在は消える。残るのは、専門家によって真実が究明されるべき過去の「慰安婦」だけだ。

このような過去と現在の分離を裏付ける論理が「当事者」と「支援者」という二分法である。著者は『結局、支援者の意図ではなかったとしても、慰安婦問題支援運動は、問題の解決そのものよりも、「日本社会の改革」という左派の理念を重視したことになった。そこでも「慰安婦」はもう「当事者」であることがなかった』というふうに、当事者性の問題を提起する。この評価は、国民年金が正解だった前提の上でなされたので、その妥当性にも問題があるが、より大きな問題は、「慰安婦問題」を「慰安婦当事者」だけの問題に限らせようとする朴氏の視線だ。 『当時、支援者・団体が天皇制廃止に向けた「日本社会の改革」の志向よりも慰安婦問題自体に集中した場合、慰安婦問題の解決は可能だったかもしれない』という評価はそのような視線をよく示している。最終的には純粋な支援運動がなかったので失敗したという話だ。このような論法の問題性は、今の韓国社会の文脈の中に置いてみると、より明確になる。

4.16(セウォル号の惨事)以降、現在まで続いている大規模な集会を非難するときによく使用される言葉は「セウォル号を政治的に利用してはいけない」だ。 「パク·クネ退陣」を掲げたり、大統領府に向かおうとする彼らを「純粋な追悼とは別の意図」を持った存在として描き出して分離させようとの試みは、メディアを通じて繰り返されている。それでも多くの人々が通りに出る理由は、彼らが「当事者」だからだ。

1990年代から慰安婦問題解決のために展開された運動の当事者も、「慰安婦のおばあさんたち」だけではない。当事者と支援者という二分法は、運動の中で形成される「私たち」を破壊し、それぞれの位置に戻し固定する。そして、当事者は運動の成果を判定するための基準となり、支援者はその成果に奉仕する存在となる。そこから新しい社会は生まれない。

<帝国の慰安婦>は重要な考察を含んでいることもある。慰安婦問題を通して基地村を考え、また資本の問題を提起する視点は重要である。それでも結論としては、「慰安婦問題を本当に解決したいなら、基地問題を解決しなければならず、そのためにも日本との和解は必要だ」と、つまり米軍基地問題を解決するために日本と和解しようというとんでもない主張が提示されている乖離は何だろうか。彼女はいかなる当事者なのだろうか。

藤井たけし 歴史問題研究所 研究室長

[原文] [세상 읽기] ‘현재’를 묻는다는 것 / 후지이 다케시