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鄭栄桓氏による『帝国の慰安婦』書評のまとめ

朴裕河「帝国の慰安婦」 日本軍「慰安婦」問題

明治学院大学 鄭栄桓准教授による朴裕河『帝国の慰安婦』書評の各回内容を下記の通り整理しました。

 

(1)朴裕河『帝国の慰安婦』の「方法」について 

 証言や資料のつぎはぎ、つぎはぎされた資料群からも導きだせない根拠なき解釈

 

(2)朴裕河『帝国の慰安婦』の「方法」について(2)  

 植民地支配を「不正義」とする立場の放棄を求め、「帝国」の側からの憐憫を促す

 

(3)朴裕河『帝国の慰安婦』の「方法」について(3)

 「慰安婦」制度への日本政府と軍の責任範囲に対する極端な限定

 

(4)朴裕河『帝国の慰安婦』の「方法」について(4)

 憲法裁判所「決定」の歪曲による被害者たちの権利の消滅化

 

(5)朴裕河『帝国の慰安婦』の「方法」について(5)

 日韓協定についての文献を理解しないことによる珍妙な主張

 

(6)杉田敦「根源は家父長制・国民国家体制」(『帝国の慰安婦』書評)について  

 恣意的な論法による日本軍の責任極小化、天皇を批判する被害者への最大限の罵倒

 

(7)朴裕河『帝国の慰安婦』の「方法」について(6)

 朴の日本政府への期待は不明、求めないことは明確、ただしその根拠は支離滅裂

 

(8)朴裕河『帝国の慰安婦』の「方法」について(7)

 藍谷論文の途中の一節を結論のように記し、論文の趣旨を真逆に歪曲して利用

 

(9)朴裕河氏の「反論」について

   主張の「論拠」が論拠たりえず、無理な結論にあわせようと粗雑な方法に依拠

 

(10)朴裕河『和解のために』をめぐる「論争」をふりかえる(1) 

   人々は朴裕河の叙述に各自の幻影を投影し、朴裕河は無限に「真意」を語り続ける

 

(11)朴裕河『和解のために』をめぐる「論争」をふりかえる(2・終)

   内容に即した批判にまともに答えず、批判者への「レッテル貼り」で済ませる

 

 

□各回まとめ部分の抜粋

 

(1) 朴裕河『帝国の慰安婦』の「方法」について 

 

証言や資料のつぎはぎと、そのつぎはぎされた資料群からすらも導きだせない根拠なき解釈――しかも元「慰安婦」たちが日本軍に「同志意識」を持っていたという重大な解釈――を展開することこそが、「一つの暴力」なのではないだろうか。

(2)朴裕河『帝国の慰安婦』の「方法」について(2)

 

本書において筆者は明確に、植民地支配を「不正義」と認識してこれを批判・糾弾する立場を放棄するよう朝鮮人側に求めている(しかも「証言者」の言葉を借りて)。それは、日本人に対して「帝国」の側からの憐憫と同情を示すことを促すかのような叙述と対応している。


(3)朴裕河『帝国の慰安婦』の「方法」について(3)

 

「黙認」「需要」創出というそれ自体極めて問題含みで、限定された日本軍の「責任」すら「法的責任」は問えない、というのが本書における朴の主張である。こうした「法的責任」論を理解したしたうえで再びこれまで検討した朴の主張を振り返ると、本書が法的責任を排除したより広義の「責任」すら、日本軍については極めて限定的にしか認めていないということに、改めて驚きを禁じえない。

 

(4)朴裕河『帝国の慰安婦』の「方法」について(4)

 

憲法裁判所の「決定」は、韓国政府にも責任があるがゆえに、そこから排除された人々の基本権を保護する「具体的な義務」がある、と論じたのだ。もちろん、韓国政府に責任があるといっても、憲法裁判所は朴のように請求人たちの賠償請求権が請求権協定によって失われたと主張したわけではない。むしろ日韓交渉でほとんど議論されなかった問題があり、依然として請求権があると主張する人々がおり、そこに相応の根拠がある以上、協定に基き解決するべき義務があると判断したのである。歪曲と混同、事実誤認により勝手に被害当事者たちの権利を消滅させることにより問題を「悪化」させている。

 

(5)朴裕河『帝国の慰安婦』の「方法」について(5)

 

請求権・経済協力協定に基き支払われた「経済協力」は、「1937年以降の戦争動員」に関連する「請求権」に基いて支払われた「賠償金」である、という理解は、依拠した文献の主張を朴が理解していないがゆえに生じた誤謬である。しかもその誤謬に基づく解釈がその文献自身が積極的に批判する主張(「事実上の補償」説)とつまみ食い的に接合されている。珍妙な「新説」が本書で頻出する背景には、こうした「方法」の問題があるといわざるをえない。

 

(6) 杉田敦「根源は家父長制・国民国家体制」(『帝国の慰安婦』書評)について 

 

本書の問題は「責任を広くとらえすぎ」るところにあるわけではない。あまりにも狭く責任をとらえすぎることにある。本書は恣意的な論法で日本軍の「責任」を極めて限定的に解釈し、元「慰安婦」女性たちの権利を極小化する。天皇制ファシズム批判、戦後日本批判には過剰なまでの反発を示す一方、「責任」を論じる段になると途端に具体性は見失われ、その責は数々の抽象概念――「帝国主義」「ファシズム」「家父長制」「国家」「国民国家」「資本主義」――へと転嫁させられる。とりわけ「構造」という概念は「運命」という言葉とあわせて、本書においては、主体、すなわち日本軍や政府(そして実は韓国政府)の責任を解除するためだけに召喚されるといってもよい。

「天皇が私の前にひざまずいて謝罪するまで私は許せない」との元「慰安婦」女性の言葉には、「傲慢と糾弾」「相手の屈服自体を目指す支配欲望のねじれた形」「屈辱的な屈服体験のトラウマによる、もう一つの強者主義」という最大級の罵倒を投げつけ、あろうことか「大日本帝国の第二者として欧米連合軍捕虜を虐待した歴史」になぞらえる。天皇批判は捕虜虐待と同じ「強者主義的欲望」だと貶めたとしても、「生の声に耳を傾けようとする」ものと杉田は評価するのだろうか。


(7)朴裕河『帝国の慰安婦』の「方法」について(6)


結局、「日韓協定の限界」に関連して朴が日本政府に何を「期待する」のかははっきりしなかった。

朴が日本政府に求めないことだけは明確である。元「慰安婦」女性たちは損害賠償を請求できない、植民地支配の当時には責任を問う〈法〉はなかったし、日韓協定により〈法〉はなくなったからだ(矛盾だが)。日韓協定に従った紛争解決もすべきではない(憲法裁判所決定批判)、「日韓関係を悪化させただけ」だからだ。問題が明るみに出た現在の立場からも〈法〉をつくるべきではない(日韓協定再協商批判)、「問題が複雑になる」、「国家としての信頼が壊れてしまう」からだ。朴によれば、なすべきは、これら以外のことである。

 

(8)朴裕河『帝国の慰安婦』の「方法」について(7)

 

「3 国際法による主張について」は四つのパートで構成されており、それぞれ番号が付されているのだが、朴はこのうち①②③だけを紹介し、なぜか本節の結論にあたる上の④に一言も触れていない。この結果、③の末尾の違法性の根拠であるから賠償については別の法により主張すべしという意味の「この条約が損害賠償をすべしという根拠にはなりえない」という一節が、あたかも本節の結論であるかのように読者に示され、「損害賠償を求めることは不可能」という朴の主張の「根拠」とされることになった。繰り返しになるが、藍谷論文はこのようなことは全く主張していない。ここでも朴は論文の趣旨とは真逆の主張の根拠として歪曲しているのである。

 

(9)朴裕河氏の「反論」について

 

まず、論旨に関わる重要な概念についての最低限の定義すらなく、かつ互いに矛盾する叙述が散見されるため論旨を読み取ること自体が困難なこと、次に、証言や史料の恣意的な使用が目立ち、かつ主張の論拠とされた史料や先行研究の多くがそもそも論拠たりえないことである。だからこそ「方法」の批判と題したのである。

もちろん、本書の最大の問題点は不適切な「方法」に限られるものではない。日本軍「慰安婦」問題における軍責任否定論、戦後補償問題についての歪んだ理解に基づいた国民基金への賛辞、元「慰安婦」女性や挺対協への度を越した「誹謗」などをもって、確かに本書は「日本に迎合し彼らの責任を無化させる方向」へと明確に読者を導こうとしているといえよう。そしてまさに本書の「方法」の杜撰さは、こうした問題のある主張の必然的帰結なのだ。本書の様々な仮説は先行研究や史料によって検証されないまま揺るぎない命題=前提とみなされ、この前提をもとに証言や史料が都合よく切り貼りされる。予想される批判については、弁明的な言辞を随所に織り交ぜることによりあらかじめ封じ込めようとし、この結果、叙述は一層の混乱に陥る。無理な結論にあわせようとするから、粗雑な方法に頼らざるをえなくなるのだ。巨大な暴力の被害者たちの生と尊厳にかかわる問題に介入しようとする者がとるべき「方法」ではない。

 

 (10)朴裕河『和解のために』をめぐる「論争」をふりかえる(1) 

 

朴裕河の議論は、「責任」という語を定義せずにマジックワードとして用いることにより可能になる。これまで『帝国の慰安婦』批判において、繰り返しこうした概念定義の曖昧さを指摘してきたのは、何も学術書の作法を指南したいがためではない。「責任」「補償」「帝国」「動員」「和解」といった極めて重要かつ論争的な概念を定義しないことが、本書の極めて核心的な「方法」だからだ。人々は朴裕河の叙述に各自の幻想を投影し、「理解」した気になる。矛盾や疑問を指摘されても、朴裕河は無限に「真意」を語り続けることにより「知識人」としての命脈を保ち続ける。こうした知的詐術に惑わされないためにも、「方法」への批判は極めて重要な意味を持つのである。

 

 (11)朴裕河『和解のために』をめぐる「論争」をふりかえる(2・終)

 

果たして『帝国の慰安婦』は「レッテル貼りと先入観」を克服した著作になったであろうか。「償い金」が「補償」であるという充分な理由を提示したのであろうか。日本軍「慰安婦」制度への独特な理解について、説得的な説明が与えられたであろうか。答えは否である。それどころか『帝国の慰安婦』は日韓協定による「経済協力」は「補償」であったという驚くべき主張を加え、さらなる混迷の淵へと人々を導いていくことになるのは、すでにみた通りである。

内容に即した批判にまともに答えず、「先入観」にもとづき批判者への「レッテル貼り」をして済ませているのは、朴裕河自身といわざるをえない。

 

 

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明治学院大学 鄭栄桓 准教授