Q&A 1 「慰安婦」の徴集と連行 | Fight for Justice 日本軍「慰安婦」―忘却への抵抗・未来の責任

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Q&A | Fight for Justice 日本軍「慰安婦」―忘却への抵抗・未来の責任

 

1 「慰安婦」の徴集と連行

1-1 朝鮮で、女性を「慰安婦」にするために強制連行したことはなかった?

安倍晋三首相は、「官憲が家に押し入っていって人を人さらいのごとく連れて行く」という「強制性」はなかった、といっています(2007年3月5日参議院予算委員会)。また、橋下徹大阪市長も、「慰安婦」が「軍に暴行脅迫を受けて」連れてこられたという証拠はないといっています(2012年8月21日記者会見)。

 

安倍首相も橋下市長も、①軍・官憲による、②暴行・脅迫を用いた連行(法律用語では略取)という、二つが重なっていなければ、強制連行ではないといっています。ここに大きなごまかしがあります。
日本軍は、朝鮮・台湾で女性たちを集める時には、業者を選定し、この業者に集めさせました(軍に依頼された総督府が業者を選定する場合もあります)。この業者は、人身売買や誘拐(だましたり、甘言を用いて連行すること)を日常的に行っている女衒(ぜげん)とよばれる人たちだったので、彼らは「慰安婦」を集める場合もしばしば同様の方法を用いました。

 

これは刑法第226条に違反する犯罪です。また、強制とは本人の意思に反してあることを行わせることですから、誘拐は強制連行になります。人身売買も本人にとっては経済的強制ですから、強制連行というべきでしょう。誘拐や人身売買で連行された女性たちが軍の施設である慰安所に入れられて、軍人の性の相手をさせられたら、強制使役になります。軍の責任は極めて重大だということになります。この単純・明白なことを安倍さんも橋下さんも見ようとしていないのです。

 

朝鮮・台湾から女性たちが誘拐や人身売買で海外に連れて行かれたという証拠は、被害者の証言以外はないのでしょうか。そんなことはありません。たくさんあるのです。いくつか挙げてみましょう。

 

第1にアメリカ軍の資料があります。アメリカ戦時情報局心理作戦班が作成した、今では有名な「日本人捕虜尋問報告」第49号(1944年10月1日)です。誘拐や人身売買で多数の朝鮮人女性がビルマに連れて来られた、とつぎのように記録しています。

 

一九四二年五月初旬、日本の周旋業者たちが、日本軍によって新たに征服された東南アジア諸地域における「慰安役務」に就く朝鮮人女性たちを徴集するため、朝鮮に到着した。この「役務」の性格は明示されなかったが、それは病院にいる負傷兵を見舞い、包帯を巻いてやり、そして一般的に言えば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事であると考えられていた。これらの周旋業者が用いる誘いのことばは、多額の金銭と、家族の負債を返済する好機、それに、楽な仕事と新天地――シンガポール――における新生活という将来性であった。このような偽りの説明を信じて、多くの女性が海外勤務に応募し、二、三百円の前渡し金を受け取った。(吉見義明編『従軍慰安婦資料集』資料99、大月書店)

 

これは国外移送目的誘拐罪に該当します。また、200-300円程度の前借金を渡していることから、国外移送目的人身売買罪にも該当します。この米軍の記録では、約700名の朝鮮人女性が騙されて応募し、6ヵ月から1年間、軍の規則と業者のための役務に拘束された、この期間満了後もこの契約は更新された、と記されています。軍を主とし、業者を従とする犯罪だというほかないでしょう。これを強制連行といわなければ何というのでしょうか。

 

朝鮮人女性が誘拐されてビルマのラングーンの慰安所に連れてこられたという記録をみてみましょう。小俣行男元読売新聞記者の回想です(小俣『戦場と記者』冬樹社)。1942年にラングーンに朝鮮から40~50名の女性が上陸します。慰安所を開設したので、新聞記者たちには特別サービスをするから、というので大喜びで彼は慰安所に行きます。ところが実際に小俣さんの相手になった女性は23、24歳の女性で、「公学校」で〔正確には1941年以降は初等学校は朝鮮でも国民学校とよばれていた〕先生をしていたというのです。「学校の先生がどうしてこんなところにやってきたのか」と聞くと、彼女はだまされて連れてこられたと語っているのです。これは誘拐です。

 

その女性の話によると16、7歳の娘が8名いて、「この商売は嫌だと泣いています。助かる方法はありませんか」とこの読売新聞記者に相談します。考えた末に、「憲兵隊に逃げ込んで訴えなさい」「これらの少女たちが駆け込めば何か対策を講じてくれるかも知れない。或はその反対に処罰されるかもしれない。しかし、今のビルマでは他に方法はあるだろうか」と彼は答えます。

 

この少女たちは憲兵隊に逃げ込んで救いを求め、憲兵隊でも始末に困ったが、抱え主と話し合って結局8名の少女が将校クラブに勤務することになったというのです。その後少女たちがどうなったのか。この少女たちは朝鮮に送り帰されていないようです。国民学校の元先生はどうなったのでしょうか。そのまま慰安所に入れられており、解放されていません。連れて行った業者も逮捕されていません。こういう状況がまかり通っていたのです。

 

第3航空群燃料補給廠の通訳としてシンガポールにいた永瀬隆さんは、次のように語っています。

 

私は朝鮮人の慰安婦に日本語を三回くらい教えましたが、彼女たちは私が兵隊ではないのを知っていたので、本当のことを話してくれました。
「通訳さん、実は私たちは国を出るとき、シンガポールの食堂でウェイトレスをやれと言われました。そのときにもらった百円は、家族にやって出てきました。そして、シンガポールに着いたら、慰安婦になれと言われたのです。」
彼女たちは私に取りすがるように言いました。しかし、私は一介の通訳として軍の権力に反することは何もできません。彼女たちが気の毒で、なにもそんな嘘までついて連れてこなくてもいいのにと思いました。(青山学院大学プロジェクト95編『青山学院と出陣学徒』私家版、東京都)

 

これは、誘拐と人身売買が重なっているケースですね。

 

畑谷好治元憲兵伍長は、中国東北の琿春の慰安所に入れられた朝鮮人女性たちの身上調査をしていますが、その時のことを次のように回想しています。

 

私は少し横道に逸れた質問であったが、「どんな仕事をするのか知っているのか」と聞いてみたところ、ほとんどが、「兵隊さんを慰問するため」「私は歌が上手だから兵隊さんに喜んでもらえる」云々と答え、兵隊に抱かれるのだということをはっきり認識している女は少なかった。……女たちは、慰安所の主人となる者か、あるいは女衒から貰った前借金を親に渡し、また、親が直接受取り、家族承知の上で渡満してきたもので、正当な契約書があったか、否かは定かではなかったが、誰もが例外なく、「早く前借金を返し、お金を貯めて親兄弟に送金するのだ」と語ってくれた。(畑中好治『遥かなる山河茫々と』私家版、京都市)

 

これも、誘拐と人身売買がかさなったケースといえるでしょう。

 

朝鮮の女性たちが、誘拐か人身売買で連行されたことは秦郁彦さんも認めています。秦さんの著書『慰安婦と戦場の性』(新潮社・1999年)では、彼が「信頼性が高いと判断してえらんだ」元軍人などの証言が9例あげられています。4例が朝鮮人女性のケースですが、3例が誘拐、1例が人身売買です(ほかに日本人女性の誘拐が2例、略取が1例、ビルマでの未遂が1例、シンガポールでの募集が1例)。

 

そのうち、ひとつを紹介しますと、鈴木卓四郎元憲兵曹長は、南寧の慰安所の若い朝鮮人業者(地主の次男坊だった)から「契約は陸軍直轄の喫茶店、食堂」と聞いて地元の小作人の娘を連れて来たと聞いています。この青年は「<兄さん>としたう若い子に売春を強いねばならぬ責任を深く感じているようだった」と述べていますので、業者もだまされたというケースです。これは軍がだました誘拐ということになります。

 

なお、朝鮮で軍・官憲による暴行・脅迫をもちいた連行(略取)があったかどうかですが、被害者の証言はかなりの数あります。これを裏づける他の文書・記録や証言はいまのところ、見つかっていません。しかし、1件もなかったということを証明する証拠もありません。

 

1941年、対ソ戦準備のために関東軍特種演習(関特演)という名目で、陸軍の大動員が行われます。この時、2万人の「慰安婦」を徴募するという計画がたてられ、多数の女性が朝鮮から動員されます。この時集められた人数は、千田夏光さんが原善四郎関東軍参謀から聞いたところでは8千人、関東軍参謀部第3課兵站班にいた村上貞夫さんの証言では3千人くらいだったということです(村上さんから千田夏光氏への手紙、VAWW-NET Japan編『日本軍性奴隷制を裁く 2000年女性国際戦犯法廷の記録』3巻、緑風出版、所収)。

 

そうだとすれば、かつて秦郁彦さんがいっていたように、「結果的には娼婦をふくめ八千人しか集まらなかったが、これだけの数を短期間に調達するのは在来方式では無理だったから、道知事→郡守→面長(村長)のルートで割り当てを下へおろしたという。……実状はまさに「半ば勧誘、半ば強制」(金一勉『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』)になったと思われる」(秦『昭和史の謎を追う』下巻、文藝春秋、1993年)という事態があった可能性があります。関東軍・朝鮮軍・朝鮮総督府の資料は多くが焼却され、ほとんど残っていませんが、関係者の資料が出れば、はっきりするかもしれません。これは今後の究明をまたなければなりません。

 

2-1-1a 史料 戦時情報局資料 誘拐

アメリカ戦時情報局資料

1-2 女性を慰安婦にするため、軍・官憲が暴行・脅迫により連行したことはなかった?

安倍晋三首相は、「官憲が家に押し入っていって人を人さらいのごとく連れて行く」という「強制性」はなかった、といっています(2007年3月5日参議院予算委員会)。また、橋下徹大阪市長も、「慰安婦」が「軍に暴行脅迫を受けて」連れてこられたという証拠はないといっています(2012年8月21日記者会見)。ほんとうにそうでしょうか?

 

日本の植民地であった朝鮮・台湾のついては別のQ&Aをみてください。中国・東南アジア・太平洋地域では、軍・官憲が暴行・脅迫により連行した事例が数多く確認されています。代表的なケースを見てみましょう。

 

1 中国については、山西省の盂県でのケースが裁判になり、その具体的な様相は岡山大学の石田米子名誉教授と内田知行大東文化大学教授により、『黄土の村の性暴力』(創土社)の中で実態が解明されています。これは現地にいた日本軍の小部隊が地元の住民を連行してきて、一定期間監禁・レイプするというものですが、被害女性からの聞取りだけでなく、現地の住民の証言も数多く集め、被害の実態を深く解明することに成功しています。

 

これは3件の裁判になりました。請求は棄却されましたが、裁判所で事実認定がなされています。その概要をみるとつぎのようになります。まず、中国人「慰安婦」損害賠償請求事件の第1次訴訟の東京高裁判決(2004年7月28日)です。東京高裁は、つぎのように認定しています。

 

八路軍が一九四〇年八月に行った大規模な反撃作戦により、日本軍北支那方面軍は大損害を被ったが、これに対し、北支那方面軍は、同年から一九四二年にかけて徹底した掃討、破壊、封鎖作戦を実施し(いわゆる三光作戦)、日本軍構成員による中国人に対する残虐行為も行われることがあった。このような中で、日本軍構成員らによって、駐屯地近くに住む中国人女性(少女も含む。)を強制的に拉致・連行して強姦し、監禁状態にして連日強姦を繰り返す行為、いわゆる慰安婦状態にする事件があった。

 

このように、中国山西省の李秀梅さんら4名の女性が日本軍部隊に連行され、監禁・強姦されたことを明確に認定しているのです。

 

つぎは、第2次訴訟の東京地裁判決(2002年3月29日)・東京高裁判決(2005年3月18日)です。東京地裁は、1942年、日本兵と清郷隊(日本軍に協力した中国人武装組織)が集落を襲撃し、山西省の原告郭喜翠さんと侯巧蓮さんを、暴力的に拉致し、監禁・輪姦した(郭さんはその後2回拉致・監禁・輪姦された)と認定しています。また、東京高裁は、この認定を踏襲しています。2007年4月27日、最高裁判所は原告による上告を棄却しましたが、日本兵と清郷隊による暴力的な拉致と監禁・輪姦の事実は認定しています。

 

3番目は、山西省性暴力被害賠償等請求事件の東京地裁判決(2003年4月24日)と東京高裁判決(2005年3月31日)です。東京地裁は、山西省の万愛花さんら10名の女性の被害事実について、1940年末から1944年初めにかけての性暴力被害の状況をほぼ原告の主張通りに認定しました。また、東京高裁は、この認定を踏襲しています。

 

海南島戦時性暴力被害賠償請求事件の東京高裁判決(2009年3月26日)も、8名の女性が日本軍に監禁・強姦された事件について「軍の力により威圧しあるいは脅迫して自己の性欲を満足させるために凌辱の限りを尽くした」と認定しています。

 

軍による略取ではありませんが、軍による誘拐のケースについては、東京裁判の判決があります。これは中国の事例について、つぎのように述べています。

 

桂林を占領している間、日本軍は強姦と掠奪のようなあらゆる種類の残虐行為を犯した。工場を設立するという口実で、かれらは女工を募集した。こうして募集された婦女子に、日本軍隊のために醜業を強制した。

 

これは、軍による誘拐ということになります。

 

2 インドネシアでは、多くの事例があげられます(以下、「日本占領下オランダ領東印度におけるオランダ人女性に対する強制売春に関するオランダ政府所蔵文書報告書」によります。その翻訳は梶村太一郎ほか編『「慰安婦」強制連行』株式会社金曜日に収録されています)。

 

まず、第一は、スマラン慰安所事件です。この事件は1944年2月、スマラン近郊の三つの抑留所から、すくなくとも24名の女性たちがスマランに連行され、売春を強制されたというものです。その後、逃げだした2名は警官につかまり、連れ戻されます。1名は精神病院に入院させられ、1名は自殺を企てるところまで追い込まれます。1名は妊娠し、中絶手術を受けています。

 

第2は、マゲランのケースです。1944年1月、ムンチラン抑留所から、日本軍と警察が女性たちを選別し、反対する抑留所住民の暴動を抑圧して連行したというものです。その一部は送り帰され、替わりに「志願者」が送られます。残りの13名の女性は、マゲランに連行され、売春を強制されたと書かれています。

 

第3は、1944年4月、憲兵と警察がスマランで数百人の女性を逮捕し、スマランクラブ(軍慰安所)で選定を行い、20名の女性をスラバヤに移送したというケースです。そのうち17名がフローレス島の軍慰安所に移送され、売春を強制された、と記されています。

 

第4は、1943年8月、シトボンドの憲兵将校と警察が4人のヨーロッパ人女性に出頭を命じたというケースです。女性たちはボンドウオソのホテルにつれて行かれて2日間強姦され、そのうち、2名は自殺を図った、と記されています。

 

第5は、1943年10月、憲兵将校が上記2名の少女と他の4名の女性をボンドウオソのホテルに連行したというケースです。他に8名が連行された、と記されています。

 

第6は、マランのケースです。ある女性の証言によると、マランの憲兵が3名のヨーロッパ人女性を監禁して、売春を強いた、と記されています。

 

第7は、未遂事件ですが、1943年12月、ジャワ島のソロ抑留所から日本軍が女性たちを連行しようとしたが、抑留所のリーダーたちによって阻止された、と記されています。

 

第8は、パダンのケースで、1943年11月頃から、日本軍はパダンの抑留所から25名の女性をフォートデコックに連行しようとしたが、抑留所のリーダーたちが断固拒否したというものです。しかし、11名が抑留所よりはましだと考えて「説得」に応じた、と記されています。この最後のケースも、食料の極端な不足など、抑留所の劣悪で絶望的な環境を考えると、「自由意志」によるとはいいがたいものがあります。

 

第9は、ジャワ島プロラのケースで、少なくとも15人の女性たちが2軒の家に監禁され、日本軍人により強姦された、というものです。

 

以上は、オランダ政府が、自らが持っている資料に基づいて、少なくともこういうケースがあったと述べているものです。白人の被害を中心に記述し、また、強制の範囲を非常に狭く取って解釈をしているようですが、それでも、軍が直接手を下した略取に限っても、これだけの事例を実際に挙げているのです。

 

つぎに、インドネシア人の被害のケースを見てみましょう。1945年3月以降、海軍第25特別根拠地隊がアンボン島で地元の女性たちを強制連行・強制使役したことを、同隊附の主計将校だった坂部康正氏は、つぎのように回想しています。

 

M参謀は……アンボンに東西南北四つのクラブ(慰安所)を設け約一〇〇名の慰安婦を現地調達する案を出された。その案とは、マレー語で、「日本軍将兵と姦を通じたるものは厳罰に処する」という布告を各町村に張り出させ、密告を奨励し、その情報に基づいて現住民警察官を使って日本将兵とよい仲になっているものを探し出し、決められた建物に収容する。その中から美人で病気のないものを慰安婦としてそれぞれのクラブで働かせるという計画で、我々の様に現住民婦女子と恋仲になっている者には大恐慌で、この慰安婦狩りの間は夜歩きも出来なかった。
日本の兵隊さんとチンタ(恋人)になるのは彼等も喜ぶが、不特定多数の兵隊さんと、強制収容された処で、いくら金や物がもらえるからと言って男をとらされるのは喜ぶ筈がない。クラブで泣き叫ぶインドネシヤの若い女性の声を私も何度か聞いて暗い気持になったものだ。(海軍経理学校補修学生第十期文集刊行委員会編『滄溟』同会)

 

アンボン島で軍による略取があったことは明らかでしょう。

 

もうひとつあげると、極東国際軍事裁判の証拠資料があります。その中から一例を挙げますと、インドネシアのモア島で指揮官だったある日本陸軍中尉は、住民が憲兵隊を襲ったとして住民を処刑し、その娘たち5名を強制的に「娼家」に入れたことを認めています。以下は陳述書の一部です(Doc. No.5591、内海愛子ほか編『東京裁判――性暴力関係資料』現代史料出版)。

 

問 或る証人は貴方が婦女達を強姦し、その婦人達は兵営へ連れて行かれ日本人達の用に供せられたと言ひましたが、それは本当ですか。
答 私は兵隊達の為に娼家を一軒設け、私自身も之を利用しました。
問 婦女達はその娼家に行くことを快諾しましたか。
答 或者は快諾し、或る者は快諾しませんでした。
問 幾人女がそこに居ましたか。
答 六人です。
問 その女達の中幾人が娼家に入る様強いられましたか。
答 五人です。
問 どうしてそれ等の婦女達は娼家に入る様強ひられたのですか。
答 彼等は憲兵隊を攻撃した者の娘達でありました。

 

3 フィリピンで名乗り出た女性たちの圧倒的多数は軍による略取(監禁・レイプ)のケースでした。代表的な例は、マリア・ロサ・ルナ・ヘンソンさんの証言です。大阪大学の藤目ゆき准教授が丁寧な聞き書きをして、『ある日本軍「慰安婦」の回想』(岩波書店)という本にまとめています。これによればヘンソンさんは、道路を歩いていて日本軍に略取され、一定期間監禁・レイプされています。フィリピンでは、こういうケースが非常に多くあります。

 

黄土の村の性暴力―大娘(ダーニャン)たちの戦争は終わらない (石田米子・内田知行)慰安婦強制連行 オランダ軍法会議資料

1-4 北朝鮮への拉致とどう違うか?

安倍首相は2006年から翌年にかけての首相時代に、「官憲が家に押し入っていって人さらいのごとく連れていくという強制性はなかった」(2007.3.5参議院予算委員会)、「この狭義の強制性については事実を裏づけるものは出てきていなかったのではないか」(2006.10.6衆議院予算委員会)などと、「狭義の強制」がなかったと言い張ることによって日本軍「慰安婦」制度を弁護してきました。安倍首相の発言は何重にも問題を歪曲するものでしかありませんが、この理屈で言うと、北朝鮮による拉致はどのようになるでしょうか。

 

安倍首相の定義を北朝鮮の拉致問題にあてはめると、「官憲が家に押し入っていって人さらいのごとく連れて」行った例は確認されていませんので、拉致された人で強制された人はいなかったという結論になってしまいます。横田めぐみさんの場合も、「家に押し入って」連れ去られたわけではありません。

 

また日本軍の公文書で裏付けられていないという理屈を適用すると、北朝鮮の公文書で拉致を裏付けるものが出ていないのですから、それが明らかになるまでは拉致が事実かどうかは認定できないということにもなってしまいます。

 

北朝鮮によって拉致されたと日本政府によって認定された人のなかには、横田めぐみさんのように、直接の暴力によって力ずくで連行された人もいれば、神戸市の飲食店店員だった田中実さんのように、「甘言により海外へ連れ出された」(警察庁発表)ケースの人もいます。この田中実さんの件について、警察は、「複数の証人等から、同人が甘言に乗せられて北朝鮮へ送り込まれたことを強く示唆する供述証拠等」が入手できたとしてそれらを根拠に拉致されたと認定しています。

 

2-1-4a  史料 警察庁発表-12-1-4a  史料 警察庁発表-2

 

 

ここでは、北朝鮮の公文書によって裏付けられていませんし、供述証拠という証言によって拉致が認定されています。また力づくで連行されたとは認定されておらず、「甘言」、つまりうまい言葉で騙されたということですが、それでも拉致に変わりはありません。この警察の認定の仕方は当然のことです。

 

もし安倍首相が、拉致被害者の家族に対して、北朝鮮の公文書で裏付けられないので拉致されたとは認定できないとか、あなたの家族が北朝鮮にいるのは「狭義の強制」によるものではないと言ったとすれば、どうなるでしょうか。

 

これだけでも安倍首相の認識はとんでもないことがわかると思います。力ずくで連れて行っても、甘言で騙して連れて行っても、ともに拉致であり、犯罪です。安倍首相らの理屈は、単なるダブルスタンダード=二枚舌でしかないでしょう。

1-5 強制を裏付ける文書はないのか?

ビルマ・マンダレーの日本軍文書(ビルマでイギリス軍に押収されてイギリスに持ち帰って保存しているのを、関東学院大学林博史教授が見つけて紹介したもの)

「日本軍によって女性がその意思に反して売春を強制されたことをはっきり示した歴史文書」はない」 (「THE FACTS」2007.6.14)などという言い方をする人たちがいます。はたしてそうでしょうか。

 

強制をめぐる問題については別の項目で取り上げますが、ここでは資料としての文書、という問題に限定して考えてみましょう。

 

まず事実を証明する資料という場合、公文書だけが資料ではありません。個人の文書や証言も立派な資料であって公文書が特に重要な資料であるということはありません。どのような資料であれ資料批判が必要です。たとえばその資料は、誰が、いつ、誰に対して、何の目的で作ったものか、などを吟味してから利用します。たとえば公文書の場合、国家(あるいはその問題を担当している政治家や官僚自ら)を正当化するために都合の悪いことは隠し、美辞麗句を使って、もっともらしく書いていることがしばしばあります。
「慰安婦」にされた女性たちがどのように集められ、慰安所でどのような扱いを受けたのか、当の元「慰安婦」の女性たちの証言や元兵士の証言がたくさんあります。

 

かりに公文書に限定してみた場合ですが、「慰安婦」にするために女性を無理矢理でもいいから連れて来いというような文書は出てきていません。その理由の一つは、あとで問題になるような文書は作らないということがあります。命令や指示の文書は抽象的なことが多く(お役所の文書は今でもそうですが)、具体的なことあるいは大事なことは口頭で説明されることがよくあります。公文書という性格から慰安所制度の汚い本質はなかなか出てこないということが指摘できるでしょう。

 

ビルマ・マンダレーの日本軍文書(ビルマでイギリス軍に押収されてイギリスに持ち帰って保存しているのを、関東学院大学林博史教授が見つけて紹介したもの)

官房長官として河野談話を出した河野洋平氏は朝日新聞のインタビューに答えて、(朝日1997年3月31日)、「本人の意思に反して集められたことを強制性と定義すれば、強制性のケースが数多くあったことは明らかだった」。「こうした問題で、そもそも「強制的に連れてこい」と命令して、「強制的に連れてきました」と報告するだろうか」。「当時の状況を考えてほしい。政治も社会も経済も軍の影響下にあり、今日とは全く違う。国会が抵抗しても、軍の決定を押し戻すことはできないぐらい軍は強かった。そういう状況下で女性がその大きな力を拒否することができただろうか」と語っています。非常にまっとうな、良識ある理解でしょう(良識というよりも、常識的であるだけなのですが、常識的であることが、いまの日本では良識があると思われるほど、日本社会が異常なのかもしれません)。

 

もう一つは日本軍や政府の重要な資料は敗戦直後に大量に処分されてしまったということです。陸軍の場合、1945年8月14日から文書の焼却が始まり、すべての部隊にも焼却命令が出されました。警察を管轄していた内務省も同じように文書を焼却するように各府県に指示しています。
たとえば「慰安婦は商行為」だと言っていた奥野誠亮元法務大臣は、敗戦の時に内務省の事務官でしたが、戦後におこなわれた座談会で次のように語っています。

 

 「公文書は焼却するとかいった事項が決定になり、これらの趣旨を陸軍は陸軍の系統を通じて下部に通知する、海軍は海軍の系統を通じて下部に通知する、内政関係は地方統監、府県知事、市町村の系統で通知するということになりました。これは表向きには出せない事項だから、それとこれとは別ですが、とにかく総務局長会議で内容をきめて、陸海軍にいって、さらに陸海軍と最後の打ち合わせをして、それをまとめて地方総監に指示することにした。十五日以降は、いつ米軍が上陸してくるかもわからないので、その際にそういう文書を見られてもまづいから、一部は文書に記載しておくがその他は口頭連絡にしようということで、小林さんと原文兵衛さん、三輪良雄さん、それに私の四人が地域を分担して出かけたのです。」(自治大学校史料編集室『山崎内務大臣時代を語る座談会』1960年)

 

つまり、公文書の焼却をおこなうために地方をまわったこと、しかもそういう指示を文書で出すと「まずい」ので、口頭でおこなったことを座談会でしゃべっています。

 

2-1-5c 戦後、日本政府は米軍向けの慰安施設を設けますが、そのときに東京でのRAA開設を担当した警視庁経済警察部長は、実際に慰安施設作りを部下の保安課長や係長に命令した際に、「これは警察本来の職務とは違うので、すべて口頭の命令でやること」「書面を残すな」と強く念を押しました。その係長は、この問題にかぎらず、「売春関係はほとんど口頭の命だった」と語っています(ドウス昌代『敗者の贈物』)。

 

官僚組織が―軍隊というのは典型的な官僚組織ですが―、あまり表沙汰にしたくないことをやるときには、文書を残さずに口頭で処理するというのは、ごく普通のことです。
いわば証拠隠滅の実行犯が、「強制」を示す文書がないといって開き直っているのが現状です。

 

こうした組織的な文書廃棄のためにたくさんの公文書が失われました。日本軍関係の文書で現在私たちが見ることができるものは、一部の軍人が焼かずに密かに隠して取っておいたものか、米軍や英軍が戦場などで没収したものであって、全体のごく一部にすぎません。
公文書は重要な資料ではありますが、あくまでも資料の一部にすぎず、現実の一側面を示すにすぎません。それだけでなく国家あるいは官僚や軍幹部にとって都合の悪い、あるいは見たくない問題は隠されています。

 

と同時に都合の悪いことが書いてある場合には、文書があっても公表しないということがあります。特に日本の場合、情報公開法ができたので現用文書(現在、官庁で使用している文書)についてはある程度、わかるようになりましたが、歴史文書についてはよくわからない状況があります(以前よりはかなり改善されてきていますが)。たとえば、当初の政府の調査では関係資料がないといっていた警察庁でしたが、1996年12月に警察大学校から重要な資料で出てきました。こうした史料はまだまだあるはずです。
民主主義国では30年、あるいは一定の年数をすぎた公文書は公開するのが原則となっています。当然日本でも戦前戦中ならびに戦後処理に関わる文書はもうすべて公開すべきです。

1-6 自発的に「慰安婦」になったのか?

「慰安婦」被害者の女性たちは、自発的に「慰安婦」になったのではありません。日本軍に直接連行されたケース、日本軍が占領した村の代表者に女性を差し出すよう命令した結果、差し出されて「慰安婦」にさせられてしまったケース、「工場で働かないか」などという,うその勧誘にだまされて「慰安婦」にさせられてしまったケース、貧乏だったため、親に売られて「慰安婦」にさせられてしまったケースなどがほとんどです。そして、いずれのケースにしても、慰安所では軍の許可なく慰安所を抜け出すことはできず、本人の意思に反して性奴隷状態を強いられました。

 

城田すず子『マリヤの賛歌』

城田すず子『マリヤの賛歌』

貧乏のため、親に売られて芸妓や娼妓となり、その後、借金が増額してしまったところを、店主や、軍の命令を受けた業者たちの勧誘を受けて日本軍「慰安婦」になった女性たちもいます。 つまり、もともと売春をしていた女性たちが、「慰安婦」になるとわかっていて日本軍「慰安婦」になったケースです。日本人の「慰安婦」被害者にしばしばみられることがわかっています。しかし、このケースの場合も、「自発的に「慰安婦」になった」と言うことはできません。なぜならば、当時の売春する女性たち、つまり娼妓や芸妓、酌婦たちは皆、前借金にしばられて廃業の自由のない状態で売春を強要され続けていたからです。もともと奴隷的状態にいた女性たちが、他に借金を返済する道がなく、しかたなく「慰安婦」になる道を選んだに過ぎないからです。

 

いくつかの事例を見てみましょう。

①1925年に夕張に生まれた山内馨子(菊丸)さんは父の仕事の失敗による貧困のなか、10歳で東京の芸妓置屋に300円の前借金で売られました。借金は増え続け、1942年、「慰安婦」になれば軍が前借金の肩代わりをしてくれると聞き、4000円の借金返済目的と「死ねば靖国神社に入れてもらえる」との思いの中「慰安婦」に応募、「トラック島」で将校専用の「慰安婦」にさせられました(『週刊アサヒ芸能』1971年8月12日、1973年8月2日、『別冊歴史読本 戦記シリーズ 第25巻 女性たちの太平洋戦争』新人物往来社、広田和子『証言記録 従軍慰安婦・看護婦 戦場に生きた女の慟哭』同上、1975年)。

 

②鈴本文さんは1924年に志摩半島の村で生まれ、7歳で身売りされて芸者として働きましたが、2000円の借金を解消するため、18歳のとき1年契約で「トラック島」の慰安所に行きました(「告白!戦争慰安婦が生きてきた忍従の28年 長く暑い夏に放つ三代ドキュメント いまだ“後遺症”を背負い報われることのない戦争犠牲者たち」『週刊アサヒ芸能』1973年8月12日、前掲『証言記録 従軍慰安婦・看護婦 戦場に生きた女の慟哭』)。

 

③1921年に東京で生まれた城田すず子さんは、父親の事業の失敗で女学校時代に芸者屋に売られました。借金返済のため、17歳で台湾の膨湖島へ渡り、その後、サイパン、「トラック島」、パラオなどへ行き、慰安所で働いたのです(城田すず子『マリヤの賛歌』日本キリスト教団出版部、1971年7月)。

 

いずれのケースも、前借金に縛られて廃業の見込みのない売春生活を強いられているところへ、日本軍「慰安婦」になると、借金返済できて自由になれると勧誘され、「慰安婦」になるしか選択の余地がないと思わされたなかで「慰安婦」となったことが見て取れます。また、「死んだら靖国神社へ入れてもらえる」「お国の役にたてる」といったナショナリズムを喚起されたことも原因であることがわかります。芸者や娼妓・酌婦の女性たちは、苦しい仕事をさせられただけでなく、世間から厳しい差別を被っていたために、国の役にたてる、国に認められるということは、人一倍魅力的に感じられたことでしょう。

日本軍は、このように社会の底辺にいた女性たちの苦しみにつけこんで「慰安婦」に徴集したのです。それを自発的に「慰安婦」になったとみることはできません。しかも、強調しておかなければならないことは、「慰安婦」になる前に彼女たちが強いられていた廃業の見込みのない売春生活(事実上の性奴隷状態)とそれを認めていた公娼制度は、当時の日本においても、また国際社会の基準においては一層、すでに許されないものになっていたのです。つまり、公娼制度下の身売りの慣習が禁止されており、別の職業選択の道が存在していたならば、彼女たちは「慰安婦」になることもなかったでしょう。国際的に禁止されていたにもかかわらず,普段から,貧困な女性たちを性奴隷状態に置いていた日本社会と,それを黙認し続け,戦時に利用した日本軍と日本政府の責任が問われているのです。