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解決編 5 世界の植民地責任・戦争責任 | Fight for Justice 日本軍「慰安婦」―忘却への抵抗・未来の責任

Fight for Justice

Fight for Justiceサイトがアクセスできなくなる時があるため、バックアップ的に記載いたします。本サイトは下記です。

解決編 | Fight for Justice 日本軍「慰安婦」―忘却への抵抗・未来の責任

 

5 世界の植民地責任・戦争責任

5-1 アメリカ、カナダの日系人への戦後補償 ~合い言葉は「リドレス」~

1.アメリカの日系人への戦後補償

戦時中に強制収容された日系人たち

1941年12月7日の日本軍によるハワイ真珠湾攻撃直後に、日系人指導者が逮捕されました。翌年2月の「大統領行政命令9066号」により、西海岸諸州に住む日系人に退去命令が出され、法の正当な手続きもなく、約12万人が内陸にある収容所(11カ所)に集団的に送られました。過酷な収容所生活のなかで、財産損失だけでなく、大きな精神的打撃を受けました。同じように「敵性国人」とされたドイツ系、イタリア系は財産放棄や長期にわたる強制収容はなかったので、人種差別であったと言えます。

 

5-1画像1970年代に3世たちがはじめたリドレス運動

戦後、日系人は沈黙を続けました。しかし1960年代の公民権運動(アフリカ系による権利獲得運動)に刺激をうけて、1970年に若い3世たちによって収容所跡地への「巡礼の旅」が組織され、歴史の掘り起こしが始まりました。1978年、日系米市民協会(JACL)の年次大会で謝罪と補償を求める運動を立ち上げました。1980年に日系人補償賠償実現連合(NCRR)が結成され行動を起こし、二世を中心とする日系アメリカ人補償全米連合(NCJAR)は1983年に集団訴訟による補償裁判を起こしました。

 

 

 

 

1980年、収容について調査する委員会の法案が成立し、翌年から全米10都市で公聴会が開かれた(20日間、750人の関係者が証言)ことで、2世たちが証言をはじめました。これに基づき出された調査委員会報告書『否定された個人の正義(Personal Justice Denied)』(83年)では、日系人の訴えをほぼ認め、生存者への補償(一人当たり2万ドル)などを勧告しました。

 

以後、補償法案が議会で審議され、ついに87年9月、日系人補償を定めた「市民的自由法案」が下院本会議で可決され、翌年4月に上院でも同様の法案が可決されました、一本化された法案に対して、88年8月にレーガン大統領の署名を得ました。

 

「市民的自由法」とリドレス

 このときに使われたのが「リドレス(redress)」という言葉です。「金銭による補償(reparation/compensation)」ではなく、「不正・過ちを正す」ことを意味します。

 

同法(Civil Liberties Act of 1988)は、まず「日系人の基本的な市民的自由と憲法上の権利の根底からの侵害に対し、議会は国を代表して謝罪する」と公式謝罪を行い、一人2万ドルの個人補償を規定しました。その対象者は収容当時、日系のアメリカ市民または永住外国人で、同法成立時に生存していた人です。亡くなった人は除外されましたが、立法後に亡くなった人はその家族などに補償金が支払われました。戦後日本に帰化して日本に住む人も補償されました。約6万人が対象となりました。また対象者には「第二次大戦中に重大な不正義が日系アメリカ人に対して行われた」ことを認めた「ブッシュ大統領の手紙」が送られました。

 

特徴的なのは、被害者に申請の必要はなく、補償対象者を探す責任はアメリカ政府が負ったことです。「アメリカ政府の過ちなのだから、政府が責任をもって対象者を探し、謝罪・補償を行うという考え方」(岡部一明)なのです。なお2007年アメリカ下院で「慰安婦」謝罪要求決議案を提出したマイク・ホンダ(1941年誕生)は、幼少期を強制収容所で送った体験をしています。

 

5-1画像32.カナダの日系人への戦後補償

カナダでも1942年初めから、日本国籍の成人男子を「道路キャンプ」に送り、西海岸の全日系人をブリティッシュ・コロンビア州内陸部、州北部、プレーリーなどの施設、内陸6カ所の収容所などに送りました。当時の日系カナダ人総数2万2000人のうち91%が移転させられました。

 

 

カナダの日系人収容はアメリカよりも過酷であったといいます。初期には多くの場合、家族はバラバラに収容されました。さらにカナダ政府は、収容に当たって日系人の財産を没収し、その売却費用を収容費用にあてました。戻るべき家屋や財産を奪ったのです。それだけでなく、戦後はカナダ生まれの2世(カナダ国籍)を含め約1万人の日系人を日本に送還しようとしました。抗議がおこりましたが、4000人の日系人が日本に送られました。

 

カナダで戦後補償を要求する運動が始まったのは、アメリカと同じく若い3世が覚醒した1970年代からです。1977年の日系カナダ人百年祭をきっかけに、同年日系カナダ人賠償委員会(JCRC)が結成されました。1980年には補償要求を最重要課題に掲げた全カナダ日系人協会(NAJC)が新たに改組され、84年に同団体の意見書「裏切られた民主主義」が政府に提出されました。87年に日系以外も含む日系カナダ人補償全国連合(NAJA)も組織されました。翌88年にオタワで400人のデモ行進が行われた。

 

88年9月22日、アメリカに続いて、カナダのマルルーニ首相は議会で日系人補償を行う声明を発表した。その内容は、過去の不正を認め、生存する収容所体験者に一人当たり2万1000カナダ・ドルの個人補償、さらに日系社会全体への社会・教育・文化への助成1200万カナダ・ドル、人権擁護のための「カナダ人種関係基金」設立費用2400万カナダ・ドルの拠金です。アメリカが立法による個人補償だったに対して、カナダではNAJCとの「合意」(協定)の形をとり、個人補償だけでなくコミュニティへ助成がある点などが異なっています。

 

2012年5月、ブリティッシュ・コロンビア州政府がカナダ連邦政府による強制収容を積極的に支援したとして、正式に謝罪しました。BC州政府のヤマモト・ナオミ高等教育大臣(両親は体験者)が同州議会に謝罪を含む動議を提出したところ満場一致で可決され、州議会議長が謝罪を表明しました。

 

<引用・参考文献、映像>

・岡部一明『日系アメリカ人ー強制収容から戦後補償へ』岩波ブックレット、1991年
・<ハンドブック戦後補償>編集委員会編『ハンドブック戦後補償』梨の木舎、1992年
・マリカ・オマツ著、田中裕介・田中デアドリ訳『ほろ苦い勝利—戦後日系カナダ人リドレス運動史』現代書館、1994年
・村川 庸子『境界線上の市民権.日米戦争と日系アメリカ人』御茶の水書房、2006年
・TBSドラマ「99年の愛~JAPANESE_AMERICANS~」2010年11月3日 – 11月7日放映
・NHK・BS1ドキュメンタリー「沈黙の伝言~日系カナダ人強制収容70年」2013年1月16日放映
・「カナダのBC州政府、強制収容に公式謝罪」(バンクーバー新報2012年5月10日第19号)
・JB PRESS   http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/35338
・Nikkei Internment Memorial Centre http://www.historicplaces.ca/en/rep-reg/place-lieu.aspx?id=15382

5-2 戦後補償日本とドイツ

戦後補償日本とドイツ

日本は、サン・フランシスコ平和条約の賠償規定を基に、個々の求償国との個別国家間交渉による相互協定に委ね、経済援助・協力の意味合いで賠償を実践してきました。その中に個人補償なども含め、補償問題も「解決済み」としました。

一方(西)ドイツ政府は「ロンドン債務協定」で、戦前の債務を受入れる代わりに戦争損害への賠償を平和条約締結後に先送り、実質的に賠償をせずに済みました。これは、経済援助・協力の意味合いでの賠償が認めらなかったことと関係します。それに対し個人補償は実施され、2000年には強制労働補償基金が創設されて現在にいたります。

 

ドイツの戦後補償の開始と展開

日本の戦後補償を考える上で、ドイツの戦後補償がいかなる意味で参考になるのかを検討しましょう。ドイツは、何を根拠に、どのような被害に対して、補償したのでしょうか? かなり複雑です。

 

補償の開始時期から整理すると、まずはイスラエル・ユダヤ人組織との協定(1952年9月)。ドイツからイスラエルへのユダヤ人移住への援助と連邦補償法制定の約束からなります。次に、「ナチ被迫害者連邦補償法」(1956年6月)(前身の「連邦補足法」実施の53年10月に遡って施行)。これが補償総額からして約8割を占め最も重要です。第三に、1957年以降、化学企業IGファルベン社をはじめとする個別企業による補償。強制収容所に収容され、なおかつ強制労働をさせられたユダヤ人に限定しての補償です。

 

本表紙 ヴァイツゼッカー演説 縮小版

書映3 ヴァイツゼッカー

以上から、「補償」概念が「政治的・人種的・宗教的な理由による迫害」という狭義の「ナチ不正」の被害(「ナチ被迫害者」)を意味し、かつ対象はドイツ国籍ないし居住者への限定(「属地原則」)という特徴が確認できます。これによって排除された西側諸国11カ国は「ナチ不正」の非ドイツ人被害者への補償を求めて「補償外交」を展開しました。ドイツは1959年から60年代前半にかけて西側諸国とそれぞれ個別に包括的補償協定を締結しています。

 

こうして強制労働は一般的な戦争の結果に属し、賠償の枠内でのみ扱われるとされ、外国人強制労働者の補償請求権は否定されることになりました。

 

ヴァイツゼッカー大統領が1985年5月、第二次世界大戦終結・ドイツ無条件降伏40周年を記念して、「いやしくもあの過去に対して眼を閉ざす者は、結局は現在に対しても盲目となります」という演説をしたことは日本でも良く知られています。その際に想起されていた被害者の中には、この間補償対象が拡大された人たち(たとえばシンティ、ロマ、ホモセクシュアル、精神障碍者など)は含まれていましたが、外国人強制労働者は想起の対象とはなっていませんでした。

 

ドイツ統一後の戦後補償

書映1過去の克服

1990年のドイツ統一に際し、強制労働者の補償問題が解決される余地もありましたが(「二+四条約」)、強制労働者の補償問題は条約から排除されました。その一方でドイツは、東欧諸国のナチ迫害被害者に「和解基金」を設立させました(ポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、ロシア)。しかし強制労働などに対する補償責任を認めたものではなく、経済的困窮者に対する人道的給付でした。一時金を支給された被害者は補償とみなさず、その後もドイツ政府への圧力はつづきました。

 

日本で強制連行・強制労働、「従軍慰安婦」に対する補償要求の運動が開始された時期に、ドイツでの未解決の問題は民間人と戦時捕虜の強制労働でした。強制収容所に収容されても補償対象からは排除されていました。政府・企業が一体となって、強制労働はナチ不正の被害ではないという論理を貫徹しました。

 

ドイツ補償基金「記憶・責任・未来」創設

それに対して被害者組織は補償問題を積極的に提起し、裁判に訴える道をとりはじめました。1996年の連邦憲法裁判所の判決によって、強制労働の被害に対する個人的補償請求の可能性が開かれましたが、地裁レベルで勝訴した訴えも控訴審では敗北しました。

 

大きな転換点は1998年3月のアメリカでのフォード本社とドイツ・フォード社に対する集団提訴です。同年9月の連邦議会選挙で社会民主党と90年連合・緑の党が勝利し、「ナチ強制労働補償」へと動きました。翌年2月に「ドイツ経済の基金イニシアティヴ<記憶・責任・未来>」が設立されました。被害者側も補償基金設立へ向けた交渉のテーブルにつき、99年12月に合意して、ラウ大統領が「赦しを請う」演説を行いました。

 

こうして、ドイツ企業の不正への「関与」、企業の「歴史的責任」と連邦議会の「政治的・道義的責任」を認める内容の強制労働補償基金が、2000年7月に連邦議会で可決されました。2004年3月末までに170万人の資格保持者のうち150万人が補償の最初の給付金を受け取りました。

 

ドイツの戦後補償の特徴

ドイツ戦後補償の経緯の特徴を挙げますと、①特殊な「ナチ不正」概念を基礎とし、「ナチ不正」以外の「戦争犯罪」と「人道に対する罪」の被害者への補償を排除したこと。②外国からの圧力によって補償が開始され展開したこと。この外圧に対応して補償のユダヤ人・非ユダヤ人の差別化、東西差別化が行われてきました。③1990年代末にはアメリカがこの問題で再登場したこと。④ドイツ国内では、補償問題に関わってきた90年連合・緑の党と社会民主党の革新連立政権の成立したこと、があげられます。

 

戦後補償の日独の差異は1990年代半ば以降顕在化しましたが、過去を想起する日独の姿勢の違いは、1960年代後半以降から1980年代前半までの時期における日独の異なった歩みに根源を見出すことができます。一つは、学問・教育レベルでの批判的歴史学の成立と展開、医学界や司法界などでの過去への批判的まなざしの醸成。もう一つは、法的責任を追及した被害者の運動体が強制労働補償基金成立交渉の一主体として位置づけられたことです。ここに日本の「アジア女性基金」(国民基金)との基本的な違いがあります。

 

日本がドイツの「過去の克服」を乗り越える可能性

書映4 歴史と責任

しかしドイツでは、戦時捕虜は強制労働補償基金の対象にならず、戦時「性的強制」(収容所で女性たちが性的な相手をさせられたこと)は問題にもされていません。強制労働も「ナチ不正」の一つとみなされてはじめて戦後補償の対象となりました。それゆえ、強制連行・強制労働、「従軍慰安婦」など日本の過去を克服するには、ドイツの戦後補償の論理、とりわけ「ナチ不正」概念を克服することが急務となります。こうした一連の日本の過去の問題は、ドイツの戦後補償の論理では排除されるからです。しかしこの克服作業は2000年に「女性国際戦犯法廷」が開始しています。これは、「過去の克服」の先進国とされているドイツを乗り越える可能をもつものと考えられます。

 

 

<参考文献>

・粟屋憲太郎他『戦争責任・戦後責任―日本とドイツはどう違うか』朝日新聞社、1994年

・石田勇治『過去の克服―ヒトラー後のドイツ』白水社、2002年

・倉沢愛子ほか編集『20世紀の中のアジア・太平洋戦争(岩波講座アジア・太平洋戦争8)』岩波書店、2006年

・佐藤健生・N.フライ編『過ぎ去らぬ過去との取り組み―日本とドイツ』岩波書店、2011年

・ペーター・ライヒェル『ドイツ 過去の克服』小川保博・芝野由和訳、八朔社、2006年

・ベンジャミン・B・フェレンツ(住岡良明・凱風社編集部訳)『奴隷以下―ドイツ企業の戦後責任』凱風社、1993年

・松村高夫・矢野久編『裁判と歴史学―七三一部隊を法廷からみる』現代書館、2007年

・望田幸男編『近代日本とドイツ―比較と関係の歴史学』ミネルヴァ書房、2007年

・矢野久「ドイツの過去の責任」金富子・中野敏男編『歴史と責任-「慰安婦」問題と1990年代』青弓社、2008年

R.v.ヴァイツゼッカー(山本務訳)『過去の克服・二つの戦後』NHKブックス、1994年

R.v.ヴァイツゼッカー(永井清彦訳)『荒れ野の40年』岩波ブックレット、1986年、2009年(新判)