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私たちが忘れてしまった初めての慰安婦証言者…その名は裴奉奇<ぺ・ポンギ>

日本軍「慰安婦」問題

우리가 잊어버린 최초의 위안부 증언자…그 이름, 배봉기 : 일본 : 국제 : 뉴스 : 한겨레

 2015.8.8 ハンギョレ新聞 金ユニョン特派員

 

ハンギョレ土曜版カバーストーリー

最初の慰安婦証言、故・裴奉奇ハルモニ

沖縄と小さな島で訪ねたうら寂しい痕跡

 

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ハルモニの晩年、家族のように面倒を見た在日本朝鮮人総連合会(総連)沖縄支部の金ヒョノクさん(73)夫婦と一緒に外出をした時に撮った写真。写真は金スソプさん夫婦の提供。

 

韓国社会が記憶できていない裴奉奇<ぺ・ポンギ>ハルモニ(1914~1991)は、朝鮮半島出身の女性の中で、自らが元慰安婦であったことを初めて明らかにした人物だ。裴ハルモニは1914年9月に忠清南道礼山郡シンレウォン里で生まれ、1991年10月18日に那覇市まえばし2丁目で亡くなった。写真は、ハルモニの晩年に家族のように面倒を見た在日本朝鮮人総連合会(総連)沖縄支部の専従だった金スソプ(74)、金ヒョノク(73)さん夫婦と一緒に外出をした時に撮った写真だ。金さん夫婦は、写真を撮った正確な日時と場所は覚えていない。裴ハルモニは、韓国社会で本格的な慰安婦運動が始まるきっかけとなった金学順<キム・ハクスン>ハルモニの初めての証言が出るおよそ16年前の1975年に、共同通信など日本のマスコミを通じて、自分が慰安婦であったことを公表した。しかし、裴ハルモニの証言は社会の幅広い反響を呼ぶことができず、すぐに人々の記憶の中から忘れられてしまった。私たちはなぜハルモニを記憶から消したのか。その糸口を探るために、裴奉奇ハルモニが慰安婦生活を強要された沖縄の小さな島、ハルモニが住んでいた小さなあばら家、ハルモニが息を引き取った村を訪ねてみた。そこで発見できたことは、自分が受けた被害を隠したまま生涯を終えなければならなかった数多くの被害女性たちのうら寂しい後姿だった。

 

日本軍が敗れて腹が立つと言ったハルモニが天皇の謝罪を語った

  

▶自分が日本軍慰安婦だったことを最初に公表した裴奉奇ハルモニは、1945年8月15日に日本が敗戦した後も、帰国を選ぶよりも沖縄に残った。以後、自分の身上が知られるようになる1975年10月頃まで、言葉も通じない遠い異国の地を転々としながら一人で生きた。ハルモニはなぜ、戦争が終わった後、故国に帰る代わりに見知らぬ異国の地に残ったのか。ハルモニは生前、あるマスメディアとのインタビューで「戦場での『仕事』が恥ずかしくて本国に戻れなかった」と語っていた。裴ハルモニを記憶する人々は、「ハルモニは本当にさっぱりとした方だった」と回想している。

 

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韓国でソウルオリンピックが開催された1988年9月頃、裴奉奇ハルモニが、自分を訪ねてきた日本の週刊誌<女性自身>の記者の前で、自分の故郷である忠清南道礼山郡シルレウォン里の位置を示している。地図は当時の総連沖縄支部の壁面にかかっていたもの。裴ハルモニは、当時、故郷に一緒に行こうという記者たちの提案に、悲しく号泣したという。金スソプさん夫婦提供

 

「あんた、×××撮っているの?」

寂れた漁村の路地を彷徨いながら手当たり次第に写真を撮っている記者の背後から、だしぬけに鋭い声が聞こえてきた。日本語と沖縄方言が混じったような独特の文章で正確な意味は分からなかったが、大体の意味は想像できた。後ろを振り返ると、70代後半くらいの1人の老婆が険しい顔つきで記者の顔を見つめていた。「お前は何者で、他人の家の写真を勝手に撮っているのか」という抗議の目つきだった。

先月26日の午前11時、沖縄本島の中心都市である那覇市の泊を出発した499t(定員450名)ほどの旅客船<フェリー渡嘉敷>は、西に1時間20分航路をとって、慶良間諸島の最大の島である渡嘉敷島に到着した。容赦なく照りつける沖縄の真夏の日差しの下、島の中心地である渡嘉敷村は、低く横たわっていた。休日のため村の公共施設はすべて門を閉ざしたままで、手にした物は20年余り前に撮った白黒写真1枚だけだった。そこで必ず探し出さなければならない建物があった。

「この村に、以前、日本軍の慰安所があったという話を聞きました。場所がわからなくて1時間ほど迷っているんです。」

「よくわからんね。」

老人が沖縄の日差しに赤く日焼けした記者の顔をじろりと睨んだ。

「あそこの空き地だよ。私らはよくわからん。知っていたとしても3,4歳の頃のことだよ。話だけ聞いた。あそこに慰安所があった。」

 

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1944年11月から1945年3月頃まで裴奉奇ハルモニが日本軍の慰安婦生活を強要された沖縄県渡嘉敷島の慰安所があった場所。屋根が赤い瓦でできていて「赤い瓦屋根の家」と呼ばれた。港から歩いて5分ほどの距離にある。

 

彼女が指さした空地の前に着いて、20年前の写真と現在の様子を照らし合わせてみた。少し離れた山の稜線と、前方の家の屋上に向かう階段の位置が正確に一致した。渡嘉敷港から歩いてほんの3分。1944年11月から1945年3月末までここにあった「赤い瓦屋根の家」で、裴奉奇(1914~1991)ハルモニを含む朝鮮人女性7名が日本軍によって慰安婦生活を強要された。現在、空地には1台の廃車が放置されており、反対側の垣根の上には「本の中では家族旅行もできるよ」という意味不明な文字が書かれていた。

 

朝鮮半島出身の慰安婦被害女性の中で、自身の経験を初めて証言した人物

慰安婦運動の決定的な契機となった1991年の金学順ハルモニの証言より16年前なのに、私たちはなぜ知らないのか

沖縄が日本に返還された1972年、字が書けないので書類の手続きができずに追放の危機

慰安婦として沖縄に来ることになった事情を知人に告白し、嘆願書を提出

隠しておきたかった個人史が明らかになるきっかけ

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【慰安婦主要事件年表】

1932年 第1次上海事変を契機に日本軍兵士の性犯罪が相次ぎ、陸軍が中国の現地に初めての慰安所を設置

1937年 中日戦争が本格的に始まり、中国各地に慰安所が本格的に拡大

1941年12月 太平洋戦争勃発によって東南アジアと南太平洋まで戦線が膨張すると、慰安所もこれらの地域に急速に拡大

1945年8月 日本の敗戦

1972年5月 沖縄が日本本土に復帰

1975年10月 裴奉奇ハルモニ、沖縄で強制追放されないために、自分がかつて日本軍の慰安婦だったことを証言し、この事実が共同通信など日本のマスコミを通じて初めて記事化

1991年8月 金学順ハルモニ、慰安婦制度に対する責任を否定する日本政府の姿勢に憤怒して、自分が日本軍の慰安婦だったことを初めて証言。以後、各地で類似した証言が相次ぎ、慰安婦運動が本格化

1993年8月 慰安婦の動員過程の強制性と軍の介入を認めた河野談話の発表

1995年7月 日本政府、国民の募金を集めて慰安婦被害女性たちに償い金を支給するアジア女性基金を発足。韓国などでは日本政府の法的責任が明らかでないとして受け取りを拒否。慰安婦問題が結局は未解決として残ることになる

2005年8月 韓国政府、韓日条約の文書公開を契機に、慰安婦問題などは1965年の韓日条約で解決していないと立場を修正

2011年8月 韓国憲法裁判所、慰安婦問題の解決のために政府が外交努力に取り組んでいないのは違憲だと決定。慰安婦問題が本格的な韓・日間の外交争点として再登場

 

赤い瓦屋根の家、その場所に行く

韓国人が記憶できていない裴奉奇という人物は、現在、韓・日関係の最大懸案となっている慰安婦問題の歴史を記録する時、外すことのできない独特の位置を占めている。朝鮮半島出身の慰安婦女性の中で、かつて日本軍慰安婦であったことを証言した最初の人物だからだ。裴ハルモニの存在が確認されたのは、韓国で慰安婦運動が始まる決定的契機となった1991年8月の金学順(1924~1997)ハルモニの「歴史的証言」がなされるおよそ16年前のことだ。なぜ私たちは裴奉奇ハルモニを記憶から消したのか。また、裴奉奇ハルモニと金学順ハルモニの間に存在する16年という広漠たる空白を、どのように理解しなければならないのか。沖縄の小さな島の港で、簡単に答えが出せない問いが堂々巡りをした。

裴ハルモニが生きてきた苦難の人生は、日本のフリージャーナリストである川田文子が1988年に出版した著書<赤い瓦屋根の家>(本には崔奉奇という仮名で登場する)に詳しく記述されている。裴ハルモニは、1914年9月に忠清南道礼山郡シンレウォン里で生まれた。彼女の父親は、他の農家に住み込みで働きながら辛うじて生計を立てる貧しい農夫だった。そのため、裴ハルモニは、満6歳の時に他の家の「生娘の嫁」(将来に結婚するために小さいうちから同じ家で育てる娘)になった。名目こそ「生娘の嫁」だったが、貧しい家から家族を一人でも減らすために、事実上の「下働き」として売られたのだ。17歳で初めての結婚をしたが失敗し、以後、朝鮮の各地と満州を当てもなくさまよいながら生きた。本に書かれているハルモニの人生史はあまりにも凄惨で、たびたび本を閉じてはため息をつかせられる。

裴ハルモニの人生に決定的な不幸が訪れたのは、彼女が29歳になった1943年の晩秋のことだ。彼女は、咸鏡南道の興南で「働かなくても金儲けができる。寝ているだけで口にバナナが落ちてくる所に行く」という慰安婦募集業者の嘘にだまされて、慰安婦の募集に応じてしまった。

1943年末と言えば、すでに太平洋戦争の戦況は米国の側に傾いていた状況だった。米軍の潜水艦の積極的な活動によって、日本の平坦線はもはや崩壊していた。ハルモニが興南、ソウル、釜山、日本の門司、鹿児島を経て那覇に到着したのは、慰安婦募集に応じてから1年も過ぎた1944年11月だった。当時、ハルモニが目撃した那覇は、米軍が1944年10月10日、沖縄各地を集中的に空襲したいわゆる「10・10空襲」で廃墟となっていた。裴ハルモニは以後、他の朝鮮人女性6名とともに、沖縄本島ではない渡嘉敷島に配置され、<赤い瓦屋根の家>と呼ばれた日本軍慰安所で、「あきこ」という仮名で日本軍を相手に慰安婦の生活を強要された。以後、日本が敗戦した後には、米軍の収容所で今度は米軍を相手に同じことをさせられたという。

 

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裴奉奇ハルモニを16年間世話してきた総連の専従である金スソプさんが1975年10月、ハルモニと初めて会った南城市佐敷にあった納屋の位置を説明している。現在、納屋の建物は撤去され、その位置には倉庫と思われる建物が建っている。

 

在日本朝鮮人総連合会(総連)沖縄支部の専従だった金スソプさん(74)が裴ハルモニと初めて会ったのは、今から30年前の1975年10月のことだ。当時、ハルモニは、沖縄東南部の南城市佐敷に住んでいた。今は辺り一帯が宅地として区画整備されているが、金さんは「以前、この周辺はすべてサトウキビ畑だった」と語った。当時、裴ハルモニは、サトウキビ畑の内側にあった「ガスも水道もない」2~3坪ほどの納屋に住んでいた。納屋はずっと前に取り壊され、今は2階建の建物ほどの高さの倉庫が建っている。

金さんは、「裴ハルモニは、当時、長い放浪生活で心身が極度に疲弊した状態だった」と語った。同じ総連の活動家だった妻の金ヒョノクさん(73)と一緒にハルモニを訪ねると、「ある日はよく来たと言ってくれても、気分が変わると『会いたくない』と門前払いされることもしょっちゅうあった」と語った。ハルモニが頭痛、神経痛、神経衰弱などのため、小さい納屋で叫び続けるので、村の子どもたちがハルモニに「狂った婆さん」と石を投げるほどだった。

当時、裴ハルモニは、韓国語を忘れてしまった状態だった。そんな裴ハルモニが日本語で金さん夫婦によく言ったのが、「友軍(日本軍)が負けたのが悔しいさ」という話だった。金ヒョノクさんは、「ハルモニの立場では、日本軍が勝ってこそ(慰安婦である)自分も生きることができるので、そんなふうに考えたようだ」と言った。ハルモニは、日本軍が撒けて世の中が変わったことを知っていたが、それが「祖国解放」を意味するとは理解できず、朝鮮戦争で祖国が南北に分断されたという事実も知らずにいた。そうして「自分が貧しいから」「それが私の運命だ」と、自分に起きた不幸をすべて自分のせいにしていた。

 

日本の出入国政策によって強制カミングアウト

裴ハルモニが自分が日本軍慰安婦だったと公表することになったきっかけは、1972年5月の「沖縄の日本復帰」だった。沖縄の施政権を回復した日本政府が、1945年8月15日以前に日本に入国した事実が確認される沖縄県居住朝鮮人に特別永住を許可するという措置を発表したためだ。そうして、申告期間を3年に制限した。

裴ハルモニは、正規教育を受けられなかったせいで、日本語と韓国語のどちらも読み書きができなかった。書類を提出できずに強制追放の恐怖に苛まれていた裴ハルモニは、以前一緒に働いたことのある食堂の主人に、自分が「慰安婦として沖縄に来て、今まで暮らしてきた」という話を打ち明けた。食堂の主人は、このような事情を含んだ嘆願書を沖縄県入国管理所に提出した。これによってハルモニは追放されずに特別永住資格を取得できたが、隠しておきたかった辛い個人史が世間に知られることになる。1975年10月、日本のマスコミを通じて裴ハルモニの身の上が記事化されたためだ。その頃に出た1975年10月22日<高知新聞>の記事の中で、後姿のハルモニは「戦場での『仕事』が恥ずかしくて故国に帰ることができなかった」と語っている。

1972年5月、沖縄が日本に返還された後、総連は、1972年8月15日、沖縄で行われた朝鮮人強制動員の真相を究明するための「朝鮮人強制連行真相調査団(以下、「調査団」)」を組織する。また、1か月後の9月6日には、金さん夫婦らを中心に沖縄総連支部も結成された。その年の10月、調査団が発表したA4用紙60ページほどの「真相調査報告書」を見ると、朝鮮人慰安婦に関連して「10月10日の空襲の頃に、日本軍のある部隊の志気鼓舞のために慰問団員として送られた。戦争に放り込まれた彼女たちは、言葉も通じず地理もわからない戦場をさまようしかなかった」という記述を載せている。金さん夫婦は、「当時は裴ハルモニのような生存する慰安婦たちに直接会うことはできなかったが、沖縄の人々の様々な証言と記録を通して、朝鮮人慰安婦の実態が確認された状態だった」と語っている。

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総連の専従であった金スソプさんがハルモニの身の上を聞くことになったのも、池田という名前の<共同通信>記者を通じてだった。裴ハルモニは、初めは金さん夫婦を冷たく追い返した。しかし、2~3年も粘り強くハルモニを訪ねて来た金さん夫婦の真心に、ハルモニは少しずつ心を開くようになる。

裴ハルモニの「カミングアウト」は、自発的な選択だったのか。在日朝鮮人2世の金ミヘ東京大学特任研究員は、「金学順ハルモニは『慰安所を作ったのは民間業者』という日本政府の嘘に憤怒して直接闘争を決心したのに対して、裴奉奇ハルモニは、日本の出入国政策によって強制的に『カミングアウト』を強要されたもの」だと語った。そのため、裴ハルモニは、望まない外部の取材要請に少なからぬ苦痛を受けることになる。

裴ハルモニの身の上は、韓国社会には本格的に伝わらなかった。金さん夫婦は、その理由について、「裴ハルモニが私たち(総連の活動家)と近しく生活していたから、南ではこれを認めたくなかったのではないか。韓国のマスコミと会うのは今回の<ハンギョレ>の取材が初めて」だと語った。1977年4月に総連の機関紙である<朝鮮新報>がハルモニを大々的に報道すると、このような傾向はさらに強化される。尹貞玉<ユン・ジョンオク>梨花女子大名誉教授は、1990年1月の<ハンギョレ>への寄稿で、裴ハルモニをめぐるこのような状況について、「ハルモニは身体も丈夫ではなく、いまだ人間忌避症にかかっており、朝総連系の金(金ヒョノクさん)という女性の要請にだけ応じると言った」と整理している。

韓国のマスコミが裴ハルモニのことを積極的に報道したとしても、その影響力は大きくなかったと思われる。裴ハルモニの居住地が韓国ではなく沖縄だったのに加えて、1980年代末まで、韓国の軍事政権は日本に対する強制動員の被害者と遺族の補償・賠償要求を強く抑え込んでいたためだ。金学順ハルモニの勇気ある証言が出たのも、1987年の6月抗争の後に日帝の被害者たちが自らの声を上げられる社会的な雰囲気が形成された後のことである。

裴ハルモニは、金さん夫婦との往来が頻繁になり、サトウキビ畑の一角にあった佐敷の納屋を出て那覇市に引っ越すことになった。金さん夫婦と裴ハルモニの共存は、そうして16年間続いた。ハルモニが気分がよくて「今日はドライブに行こう」と言えば、3人が集まって近所の温泉に行くこともあった。金スソプさんは、「毎月5日がハルモニの生活保護が出る日だった。するとハルモニが事務所に来て『肉を買って来なさい』と言えば、家内がスーパーに行って焼肉とビールを買って来た。ハルモニが一カ月に1回ずつ私たちにご馳走してくれたわけ」だと言った。

 

故郷の礼山を離れて満州などを転々

29歳になった1943年に業者に騙されて行き、「あきこ」という仮名で日本軍の相手をさせられる

戦場での出来事が恥ずかしくて故国に帰れなかったと言う

納屋で暮らし、頭痛と神経衰弱で「狂った婆さん」と言われたが

総連の金スソプさん夫婦と交流して、人生の晩年を充実して過ごす

1991年10月18日に永眠

 

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裴奉奇ハルモニの身の上を伝えた<高知新聞>1975年10月22日の記事。ハルモニは顔を公開せず、後ろを向いたまま証言している。金ミヘさん提供

 

「敵を許してやれ」 

金さん夫婦との交流を通じて、裴ハルモニは、社会を見る自分なりの視点を育んだようだ。金ヒョノクさんは「ハルモニと話して『あなたがそうなったのは、あなたの運命ではない。私たちが日帝の植民地になったからそうなったのだ』と言った。初めのうちはその話を聞きたがらなかったが、時間が経つとハルモニが心の中に疑問を抱くようになり、そうして自分なりにいろいろな考えを持つようになった」と語った。

 沖縄には他に同胞が住んでいなかったため、総連の支部の主な事業は、米軍基地の反対運動をする沖縄の民衆との「連帯事業」だった。当時、沖縄では韓米合同軍事演習のチームスピリット(1976年から1993年まで実施。現在はキー・リゾルブに代わっている)に対する反対運動が熾烈に闘われていた。この訓練に参加する米空軍が沖縄の嘉手納基地を使用しているためだ。当時、金さんは、チームスピリットに反対する嘉手納基地前の反対集会に、たびたび連帯演説をしに行った。金ヒョノクさんは、「ハルモニが『旦那はどこに行ったの』と言うと『反対集会に行った』、『それは何をするところなの』と聞くと『こうこうするところだ』と説明した」と語った。特異な身なりのハルモニが総連関連の集会に欠かさず参加したところ、ある時、平良良松那覇市長(1968~1984年在任)が裴ハルモニの身の上を聞いて、「長い間苦労されましたね。本来、日本政府が責任をもって保証しなければならないのに、生活保護しかできていません」と謝罪をしたこともあった。

1989年1月のことだった。テレビで裕仁天皇が死んだというニュースを見た裴ハルモニが、突然「どうして謝罪もせずに死んだのか」と言った。裴ハルモニがそんなことを言うとは夢にも思わなかった金ヒョノクさんは、ハルモニに「天皇が具体的にどうしてくれれば良かったのか」と尋ねた。すると裴ハルモニは「謝罪をすればよかった」と言った。裴ハルモニがこの頃には、自らに降りかかった不幸の原因について自分なりの見解を持つようになったことを推測させる。裴ハルモニは、常々、金さん夫婦に「敵を許してやれ」と言ったりもしていた。

金さん夫婦には、晩年の裴ハルモニのことを思うと忘れられない出来事が多い。韓国でソウルオリンピックが開かれた1988年9月、日本の週刊誌である<女性自身>の記者たちがハルモニを訪ねてきた。日本の記者がハルモニに故郷がどこかを地図で示してくれと言った。ハルモニは忠清南道礼山群シンレウォン里をさし示した。ちょうどフォトジャーナリストの藤井が近くに住んでいたことがあった。興奮した記者たちは、裴ハルモニに「私たちが旅費を出すから、故郷に一度行ってみませんか」と提案した。裴ハルモニは「そうだね、行きたいよ。一度行かなきゃ」と言いながらも、はっきりと答えられなかった。そうして、しばらくわあわあと泣いてしまった。金スソプさんは「ハルモニと長い間暮らしていたが、あんなふうに悲しげに泣く姿を見たのはその時が初めて」だと語った。

また、ある時は、ハルモニを主人公とする<沖縄のハルモニ>というドキュメンタリーを作った山谷哲夫という映画監督が、上映会で集めた募金をハルモニに渡したことがあった。裴ハルモニは、初めはこのお金を受け取らず金さん夫婦にあげようとした。しばらく押し問答が続いたが、金ヒョノクさんが以前に「女の人は結婚して家庭を築き、子どもを産んでいい暮らしをするのが幸せ」だと言ったハルモニの言葉を思い出して、「一緒に指輪を買いに行こう」と提案した。金さん夫婦は、ハルモニと一緒に沖縄の中心街にある最も有名な貴金属店に行き、指輪を買った。金ヒョノクさんがハルモニに「これを持って行くの、嵌めて行くの?」と聞いた。ハルモニは嬉しそうな顔で「嵌めて行くよ」と答えた。

ハルモニが息を引き取ったのは、1991年10月18日だった。その年、沖縄では、例年よりも蒸し暑い日が続いた。裴ハルモニの健康を心配した金さん夫婦は、10月初めにハルモニに「一緒に病院に行こう」と言った。それから数日後、金さん夫婦は、「ハルモニを訪問してドアを叩いても応答がない」という那覇市の社会福祉担当職員の連絡を受けた。不動産屋から鍵を借りてドアを開けると、裴ハルモニはベッドの上でしばらく休息をとるかのように安らかに横たわり、息を引き取っていた。

裴ハルモニの四十九日を兼ねて追悼式が開かれた日、彼女を記憶する多くの人が集まった。金さん夫婦が公開した当時の追悼式の写真を見ると、祭壇の前に那覇市長と沖縄県知事が贈った花輪も見える。ハルモニが住んでいた那覇市マエバシ2丁目の住民は、ハルモニを金さん夫婦の親戚だと思っていた。後にハルモニがどのような人生を送ってきたかを知った住民は、少なからず驚いたと言う。先月24日の午後、ハルモニが晩年を過ごした2丁目の路地を訪ねてみた。25年前にハルモニの後姿の写真に写っている「昭和不動産」の看板が今も街を見守っていた。市民が暮らす、どこの都市でも普通に見かける静かで寂れた街だった。金スソプさんは、「ハルモニが慰安婦としてひどい苦労をしたかわいそうな人のようにされているが、私はハルモニをかわいそうに思ったことはない。ハルモニが人生の晩年をすごく充実して生きたからだ」と語った。

 

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1991年12月6日、裴奉奇ハルモニの四十九日を兼ねて沖縄県那覇市で開かれた追悼式の様子。ハルモニを記憶する多くの人々が集まり、彼女の死を追悼した。写真後ろに沖縄県知事、那覇市長らが贈った花輪も見える。金スソプさん夫婦提供

 

金学順ハルモニの弔慰金1万円 

ハルモニの四十九日が開かれた1991年12月6日は、偶然にも、金学順ハルモニが東京地方裁判所に初の慰安婦被害補償の訴訟を提起した日だった。金ハルモニがどこで知ったのか、裴ハルモニの追悼式に1万円の弔慰金を送って来た。裴奉奇ハルモニが金学順ハルモニのような「闘士」だったのかは知る由もない。おそらくハルモニは、自分が慰安婦だったっという事実が明らかになることをそれほど望んでいなかったようだ。いずれにせよ裴ハルモニは、金ハルモニと歴史的な「バトンタッチ」をしてあの世に行った。そして、金学順ハルモニも亡くなり、長い時間が流れた。ハルモニたちは次々と亡くなり、今では48人が残っている。

金ミヘ特任研究員は、「裴奉奇ハルモニを通じて、慰安婦のハルモニたちが戦争後をどのように生き、どんな苦痛を経験してきたか、私たちが少し分かるようになった。裴ハルモニは、戦争が終わって慰安婦の女性たちがどのような人生を受け入れなければならなかったかを教えてくれる、窓のような存在ではなかったかと思う」と語った。