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日本女性学研究会による『忘却のための「和解」』書評

 

鄭栄桓(チョン・ヨンファン)『忘却のための「和解」―『帝国の慰安婦』と日本の責任―』(世織書房 2016年3月)1800円+税


1 『帝国の慰安婦』、何が問題か
2 日本軍「慰安婦」制度と日本の責任
3 歪められた被害者たちの「声」
4 日韓会談と根拠なき「補償・賠償」論
5 河野談話・国民基金と植民地支配責任
6 終わりに=忘却のための「和解」に抗して

本書は、朴裕河(パク・ユハ)『帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い』(日本語版は朝日新聞出版 2014年)に対する批判の書である。

本書の1「『帝国の慰安婦』、何が問題か」で、鄭氏は、まず、昨年末の被害者不在の「日韓合意」に対して日本のマスコミが高く評価した背景には、被害者たちを譲歩させることで「慰安婦」問題を「解決」としようという「和解」論の浸透があったと述べる。この『帝国の慰安婦』も、日韓対立を「慰安婦」イメージの誤った修正により調停し、「和解」を図ろうとするものだったから取り上げたのだと鄭氏は言う。

朴氏の前著『和解のために』は、韓国の「反日ナショナリズム」を批判した(具体的には、韓国の挺隊協を批判し、日本の「国民基金」を評価すべきだとした)ことが日本のリベラル知識人に高く評価され、『帝国の慰安婦』も非常に高く評価されている。しかし、鄭氏は本書で、そのような評価は誤りであり、『帝国の慰安婦』は、先行研究を理解しておらず、史料などの解釈においても、「恣意的」と評価せざるを得ないような飛躍があると主張している。

その際、同氏は、批判の前提として、著者の朴氏の主張をできるかぎり引用して、『帝国の慰安婦』の論旨を明確にすることを心がけたという。なぜなら、『帝国の慰安婦』が何を主張しているか自身が論争の争点になっているからだ。そんなことが争点になっている原因について、鄭氏は、同書には矛盾する論理が遍在しているうえ、重要な概念を独特の意味で使っているので、「論旨」を読み取るのが非常に難しいからだと述べる。

2「日本軍『慰安婦』制度と日本の責任」以後が、『帝国の慰安婦』の具体的主張に対する批判だ。

朴氏自身は「『帝国の慰安婦』は、けっして日本を免罪しようとした本ではなく、人身売買業者の問題に触れたために、そのようなレッテルを貼られたのだ」(要旨)と主張しているが、鄭氏は、そうではないことを述べていく。

まず、鄭氏は、『帝国の慰安婦』が歴史修正主義として批判するものは、「慰安婦=自発的な売春婦」論に限定されており、今日的な日本軍の責任否定論(=「軍は公娼施設の利用者にすぎず、軍の関与は『良い関与』であり、公娼施設の女性は合法だから『性奴隷』ではなく、犯罪があったとしても業者の責任だ」云々)には及んでいないことに注意を促す。それは、朴氏の主張自体が、今日的な意味での日本軍の責任否定論(全否定ではないが)になっているからだ――というのが鄭氏の見方だ。

鄭氏は、『帝国の慰安婦』の日本の責任論の問題点について、以下のように批判している。:『帝国の慰安婦』は、日本軍の責任を、「慰安所」制度を「発想」して「需要」を作り出し、人身売買を「黙認」した責任に限定している。そのため、朴氏は、日本の法的責任は否定しており、業者の「だまし」「誘拐」しか問題にしない。しかし、日本軍は、単に「慰安所」制度を「発想」したのではなく、吉見義明氏も述べているように、「慰安所」制度の創設・維持・運用・管理の主体が日本軍なのである。しかも、朴氏は、日本軍の「よい関与」論(不法で強引な募集を取り締まった)を支持しているために、「黙認」の責任すら結果的に否定されることになる。また、日本軍の「発想」についても、「自然」かつ「戦争」一般の問題へと解消される

また、鄭氏は、『帝国の慰安婦』には、いっけん「慰安婦」の連行に日本に直接的な責任があると主張しているように読める箇所があるが、そうではないという。たとえば、朴氏は、朝鮮人「慰安婦」が「動員」されたと述べているが、朴の「動員」概念は、「自発的」に売春を選択せざるをえない状況に置かれたという意味でしかない。

朴氏は、「慰安婦」を、〈監禁されて軍人たちに無償で性を搾取された〉という意味での「奴隷」ではないと主張しているが、鄭氏は、その主張には、以下の問題があるとする。(1)国際法における「性奴隷制」概念に対して無理解である、(2)挺隊協も国際法上のそうした「性奴隷制」概念の構築に関与しているにもかかわらず、朴氏は、あたかも挺隊協が、女性が「いかなる方法・手段・目的」で移動してきたかという、「性奴隷制」概念とは異質なものを重視しているかのように事実を歪曲している、(3)「性奴隷制」概念を「性奴隷」イメージの問題にすりかえている、(4)自らの「性奴隷」概念への無理解を棚に上げ、自説への批判者があたかも「売春」従事者を差別しているかのような論点のすり替えをおこなっている。

朴氏は、朝鮮人「慰安婦」における未成年者募集は例外的なものであり、それなのに少女像のようなものを建てるのは、売春に対する差別感情があるためだと述べている。しかし、鄭氏は、朝鮮人「慰安婦」の徴集時の年齢は20歳以下が多く、それは、日本「内地」とは異なる植民地支配下の朝鮮人「慰安婦」の重要な特徴であると指摘する。

また、朴氏は、「慰安婦」制度に関する日本の法的責任について、現在の被害者たちの個人請求権を認めないだけでなく、もともと法に反する制度であったことも否定している。しかし、鄭氏は、当時の刑法においても国際移送目的の誘拐や人身売買が犯罪であることなどは既に指摘されており、朴氏には、これまでの研究に対する無理解があると批判している。

また、朴氏は、挺身隊に行ったのは自発的な志願だったが(そのような内面が植民地化で形成されていた)、韓国ではこうした点はナショナリズムゆえに無視されてきたと言う。しかし、鄭氏は、そのような議論は史料的に成り立たないことを示す。また、鄭氏は、朴氏が、娘が挺身隊に連れて行かれないように泣いて訴えた親がいたということから、何の根拠もなく、そこには親や娘や業者の嘘=民族の嘘があったとし、日本を免罪したことを批判している。

3「歪められた被害者たちの『声』」では、朴氏が「慰安婦自身の声にひたすら耳を澄ませた」と述べ、評者たちもその点を高く評価していることに対して、鄭氏が反論している。

朴氏は「千田夏光は、朝鮮人『慰安婦』を愛国的存在として理解した」と言っているが、鄭氏は、千田夏光『従軍慰安婦』のどこにもそのような主張は書かれていないと述べる。同書で「お国のために働ける」と語っているのは日本人女性であり、そう語ったのも、募集の際や戦場に着いた当初だけの話にすぎない。むしろ千田氏は朝鮮人と日本人との差異を示唆している。また、小野田寛郎氏が「[朝鮮人慰安婦は]明るく楽しそうだった」と述べたことについて、朴氏は「それは『愛国』の笑みだった」と言っているが、鄭氏は、それには何の根拠もないと述べる。こうした事例から、鄭氏は、朴氏は検証すべき仮説をあたかも証明された命題であるかのように用いて個々の事例を演繹的に解釈しており、「女性たちの声にひたすら耳を澄ませる」こととは程遠いと批判している。

また、朴氏は古山高麗男の小説を根拠にして、慰安婦が日本兵を「同族としての軍人」だと捉えたと述べている。しかし、鄭氏は、古山の小説の中でも、それは兵士たちの意識でしかないことを指摘し、そのような議論は、1990年代に被害者の証言が登場する以前の「慰安婦」認識への回帰であると批判する。また、朴氏は、日本軍の責任否定論者は「慰安婦」が「同志」だった記憶を消し去りたいかのように述べているが、鄭氏は、そうではなく、日本政府が「おわび」をせざるをえなくなったとき、否定論者は、「慰安婦も当時は日本人として戦争に協力したではないか」と反発したと述べる。

さらに、朴氏が、ある元「慰安婦」が、兵士を糾弾するのではなく、「運命」という言葉で許すかのように言っていると述べたことに対して、鄭氏は、その証言をした黄順伊さんの発言の前後を読むと、(1)彼女の力点は「運命」にあり、「許す」とは一言も言っていない、(2)証言の最後には「日本の軍人のことを考えると本当に恨めしい。恨めしいのは恨めしいけれど、あの軍人もみんな死んだはずだよ」と語っている、(3)黄さんはカミングアウトした後も、日本に謝罪と補償を求め続けた、という事実を提示している。その一方、朴氏は、「天皇が私の前にひざまずいて謝罪するまで私は許せない」と話す元「慰安婦」に対しては、「屈服自体を目指す支配欲望」があるという人格否定の言葉を投げつける。鄭氏は、以上の事実からも、朴氏は「女性たちの声にひたすら耳を澄ませる」のではなく、自らの政治的立場を証言により「代弁」させたとみなさざるを得ない、と指摘する。

以下の章は簡単に済まさせていただくが、4「日韓会談と根拠なき『補償・賠償』論」では、朴氏が、(1)そもそも元「慰安婦」女性に日本に対する請求権はなく、(2)仮にあったとしても、日韓会談で韓国政府によって元「慰安婦」たちの個人請求権は放棄されており、(3)かわりに韓国政府が受け取った「経済協力」は日中戦争以後の戦争に関する「賠償」であった、と主張したことに対して、いずれも根拠がなく、むしろ真逆の主張を展開する研究を「論拠」にした主張だと批判する。

5「河野談話・国民基金と植民地支配責任」では、『帝国の慰安婦』は「慰安婦」問題を単に戦争犯罪としてではなく、より広く植民地主義を批判したかのように評価する意見に対して、鄭氏は、『帝国の慰安婦』はむしろ植民主義イデオロギーに親和的であると主張している。すなわち、日本人「慰安婦」との「愛国」的動機の共通性や兵士との「同志的関係」を強調する一方、未成年者徴集に代表される「慰安婦」制度の植民地主義的性格を否定しているからである。この章では、『帝国の慰安婦』が歓迎されたのは、「大日本帝国」の歴史を修正するだけでなく、「戦後日本」の歴史を(「慰安婦」たちが告発したような、植民地支配を反省しなかった歴史を)植民地支配を反省してきた歴史に修正するという、「二つの歴史修正主義」が日本に存在するためではないか、とも指摘されている。

6「終わりに=忘却のための『和解』に抗して」では、『帝国の慰安婦』による最大の犠牲者は日本軍によって「慰安婦」にされた被害者であること、それゆえ彼女たちが『帝国の慰安婦』を告発したことにも相応の根拠があるとする。鄭氏は、日本社会が『帝国の慰安婦』を絶賛するのは、日本のナショナリズムの表出ではないかとする。すなわち、同書は、問題の弥縫的対応でしかない「国民基金」を被害者が拒否することに対して、韓国の「反日ナショナリズム」だ、とひと括りにして批判して、戦後日本を肯定したからこそ、歓迎されたのではないかと言う。

以上は、本書の筋だけをご紹介したので、鄭氏の批判が正しいか否かは、本書の『帝国の慰安婦』の記述に即して批判している箇所を、同書と照らし合わせてご確認いただく必要がある(ただし、まだそのような作業によって鄭氏の議論を批判しえた人はいないようだ)。

なお、鄭氏は、少なからぬフェミニストたちの間で『帝国の慰安婦』が受け入れられていると述べているが(p.47)(1)、同書に批判的なフェミニストもまた多い。ただし、フェミニズムの観点からの『帝国の慰安婦』に対する批判や評価は、まだ本格的にはおこなわれていないのではないか? その点は今後の課題だと思う(鄭氏自身も、本書でジェンダーの観点から見て重要な指摘をしているが、フェミニズムがご専門というわけではない)。

また、「反日ナショナリズム」をどう捉えるか、という問題もあるように思う。私は中国が専門だが、「慰安婦」問題にタッチしているような中国のフェミニストは、「反日デモ」に見られるような反日ナショナリズムには批判的だ。男性中心性や暴力性を持っているからだ(2)。もちろんそれは、今日ではベトナムに対する韓国の加害をも視野に入れているような挺隊協やその「国民基金」批判などとは異なるから、「反日ナショナリズム」としてひと括りに批判するのはいけないという鄭氏の指摘こそが重要だと思う。ただ、こうした問題は、大きく言えば、ナショナリズムとフェミニズムとの関係をどう捉えるか(もちろんその関係は多様で、歴史的にも変化してきた)という問題ともつながるので、より広い考察につなげていくこともできるだろう。

(1)なお、当然ことながら、鄭氏も、『帝国の慰安婦』の中に書かれていることをすべて誤りだと言っているのではなく、たとえばフェミニズムに関わる論点としては、朴氏が、「慰安婦」に「仮に売春の前歴があったとしても、それは植民地支配の構造ゆえに生まれたものであるから、植民地にくみこんだことを問題にしなればならない」(要旨)と述べている点などは同意している(p.50)。

(2)拙稿「2012年における反日デモ、日本軍の性暴力問題と中国のフェミニスト」中国女性・ジェンダーニュース

 

(遠山日出也)

 

[出典] 日本女性学研究会 - タイムライン | Facebook

  

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